20060603

『哀しみのトリスターナ』(ブニュエル)。簡素だが、目に焼き付くいくつもの場面、出来事の起こり方とそれに対するカメラの距離。物語と演出とカメラの関係。
ドヌーブの変貌ぶり。義父と恋仲になる成り行きや若い恋人との出会い方。義父に禁じられた散歩をし、2つの分かれ道の片方を選んで男と出会うことと、足の切断によって再び義父の元へ帰ることの不気味なつながり。卵の黄身に浸けて食べるパン。ベッドの上の義足。コテージで弟といっていい耳の聞こえない男に胸を見せること。義父=夫の最後の晩餐と、廊下を松葉杖で歩くドヌーブの異様なカットバック。

『卍』(増村保造)を久しぶりで見て、こんなにおかしかったか、ここまでできるものかと思う。
展開は早く、人物はみな過剰で、権力と嫉妬と愛の関係がうねり続ける。谷崎に語る岸田今日子は大事な人間を失ったのになぜ喜々とした表情なのか。人を従属させたときの若尾文子のにんまりした笑顔。
神代辰巳の映画では一瞬、一対一を超える愛の共同体のようなものが垣間見えるのが、この映画では、そこに最も近づく最後まで来ても、決してそこには至らない。