人物が誰かに語りかける、そこから回想の形で映画が進む時、人称の問題が気になる。語っている人物がいる以上、画面にはその人物がいるか、またはその人物が見た場面でないとおかしくなる。その人物が存在したはずのない場面であれば、「〜だと誰それに聞いた」「誰それが〜したのを後で知った」または「誰それは〜していたに違いない」というナレーションが必要になるはずだが、映画ではしょっちゅう、語り手が経験したはずのない映像が普通に存在して、それは「〜と後から聞いた」の言葉を省略しているだけなのかもしれないが、自分はよく混乱する。その混乱をうまく使う手もあるだろう。
「ヘカテ」は主人公の回想の物語だから、主人公が存在しない場面は基本的にない。それ故にヘカテのモロッコの映像は全て主人公の心象の風景であって、女だけでなく全ての人物が謎めいて主人公の幻影のようだし、台詞は象徴を帯びている(厩舎での「黒い馬はいなくなった」など秀逸)。そこは「言葉が早すぎるか遅すぎるか」の、意識の、意味の下の世界、8日無断欠勤することを老女秘書が咎めるのは嫉妬として扱われる道徳の届かない世界、魅惑と恐れに覆われた世界になる。あの悪所は主人公が最も恐れ、同時に魅惑されている心の一番奥にある秘密の場所となる。あの無声映画はなんだったのか、女は何を恐れたのか。
あの女自体、本当にいたのかどうかもわからない幻の女で、最後は完全に夢と化している。シベリアのシーンは本当に素晴らしい。あの毛皮。
それで、主人公の上司が気になる。主人公をいつも待っている、疲れてくたびれた、老いた上司。あの上司が主人公を待っている映像は、主人公が存在せず、見てもいない場面として現れる。「彼はきっと今日も待っていたのだろう」か「彼は毎日待っていたらしい」というナレーションが省略されているのかもしれないが、人称から離れた映像がふいに入り、それがいつも彼を待っている上司の疲れた姿であるのが気になる。彼は何者だったのだろう。