ラピュタ阿佐ヶ谷で見た「その壁を砕け」(中平康監督)は傑作数歩手前というように感じた。
映画を見ていて自分がぞくぞくする瞬間というのは、主人公の(秘めた)恐れや欲望が、現実として顕わになる瞬間で、他にも見ていて楽しいことは多々あるが、このぞくぞくに勝る快感はない。さらにエモーションに沿って、その後の出来事がうまくはまってくると、悪夢のようなリアリティを映画がもつことになる。

長門裕之が食堂で芦川いづみを見かけ(とても美しいアップ)、確信が揺らぐ。
雨中の車のフロントガラス越しに揺れている人形を長門裕之がじっと見ていると人形が芦川いづみにオーバーラップされ、長門が誤認逮捕に気づく場面は本当にエモーショナルで素晴らしくぞくぞくする。
この場面で長門が自分の女への欲望に気づき、渡辺美佐子に会いに行く。彼女の実家から、さらに佐渡まで。列車の窓に渡辺美佐子の姿が浮かび、静かにエモーションを呼び起こす。この旅の場面は百年恋歌の一話分に相当する。佐渡で水に濡れたエロティックな渡辺美佐子に出会うが、彼女は再婚している。
帰りの船の中で、長門裕之のナレーションが唐突に入る。編集時に無理やり入れたかのようなこのナレーションが、それまでの感情の流れを断ち切ってしまう。まるで捜査のためにこの旅があったかのように無理やりミステリーのほうに、映画が操作されてしまっている。
その後、長門は現場で真犯人に出くわすのだが、この場面がいかにもご都合主義に見えてしまうのは、それを納得させるエモーションが、さっきのナレーションで断ち切られているからだと思う。長門裕之のエモーションが流れとして伝わっていれば、ご都合主義的な展開は、それこそまさに映画だ、そうでなければならない、という説得力を持って、リアリティと悪夢のような感覚を兼ね備えて見えてくるはずなのだが、残念ながらそうならなかった。
その後の実況再検分など、普通に面白かったが、長門裕之のエモーションがもはや見えなくなってしまっているために(警察としてのの正義感などはどうでもいい)、ただ普通に面白いだけになった。
姫田真左久のカメラは本当に素晴らしい。長門裕之の自転車疾走を正面から撮るところ、芦川いづみのアップ、ロングの美しさなど忘れがたい。