完成した4本の映画の講評。黒沢清監督が来て下さったが、映画自体の感想は避けておられた。やはり面と向かって罵倒はしないか。
「4本の映画が死に近づきながら、なぜ誰も死なないのか」という問い。
死、モラル、葛藤の手前を引き延して見せるより、殺してから、何か取り返しのつかないことをしてしまってから、何が起こるのかを見せることのほうが、映画においては面白いことなのではないか、と問われていたようだ。
家で居酒屋ゆうれい。元ネタの「陽気な幽霊」は未見。
良かった所

  • のちに後妻となる、見合いの相手らしき女(山口智子)が居酒屋の前にいるのに男(萩原健一)が気づく。髪が長く、顔ははっきりと見えず、ひらひらしたワンピースを着てふわふわ歩き去る、その浮世離れした様子。後ろ姿を見送る男を映せば惹かれているのがわかる。見合いの最初(初めて顔が映される)で、仲人が「こいつ無愛想で」と言うと「そこも好きです」と女が言い、男が「あやっぱり」と言う。それで2人の恋が伝わる。惹かれ合っていく様子をくだくだ見せず、あっさりと、かつ女を、テーマであるほたるのようにふわふわと謎めいた存在として見せている。
  • 体に触れられないゆうれい(前妻)が後妻の体を乗っ取り、元夫に迫る。男はあっさりとそれに応える。翌日、何も覚えていない後妻が事実を知って当然怒るが、じめじめとはしていない。そのことを引き金に女は前の男に会いに行くが、そもそも男からの手紙をしまってあるわけで、そのことがなくても、会いに行ったであろうと思わせる。あっさりとモラルを超え、そのことで話をぐだぐだ引っ張らない所。
  • ゆうれいが体に触れられず、死ぬ間際に男に噛ませた指に包帯を巻き、その噛まれた感触をよすがにしていることを、さりげなくやっている所。そのことに男が気づかない所。
  • ゆうれいは人の知らないことを知ることができる、しかしそれを人に知らせるともうこの世にいられない、それでも知りたいのか、と問われ、男が答える。「死んだ人間より生きてる人間のほうが大事だ。俺はこっち側の人間だ」
  • ゆうれいは、この世とあの世の境である滝のふもとにいるときは、いつも果物を食べているらしい。すいかを食べる様子。
  • 初見の居酒屋の客(橋爪功)が、三味線の音を聞いてこの町にさまよいこんだと言う、そしてきれいな女たちを見たと言う。そんな色町はこの辺りにないのだが、客の一人が、昔、色町がこの辺りに確かにあったと言う。そして、現在の町にいるほたると女の類似が語られる所。過去の美しい女達=ほたる=妻=ゆうれい、という形での、この世とあの世の境ををほたるのようにさまよう存在としての女、という隠喩。
  • 後妻が、前の男と会う。その男の安っぽい不気味さがその姿と会話で示される。心が揺れ動いている後妻。後妻の体を乗っ取ったゆうれいが、男の口から精気を奪って殺すときのあっけなさ。
  • 居酒屋のセットが非現実的で、ファンタジックなイメージを強調する。店内が素晴らしく、店で客たちが飲み、男が忙しく働いている様子を見ているだけでいい気分になるのだが、これは危険なことでもある。この楽しさに留まることは、エバーグリーンの、変化のない楽園としてのマンネリズムに陥る可能性がある。実際そこに陥って、映画が必要以上に長くなっている。

良くない所

  • 無駄なキャラクターとエピソードがあって長くなっている。客達のエピソードは、映画のテーマ(女=ゆうれい)に重ならないし、ただの人情話にしかならない。テーマにつながらない三宅裕司の子供、橋爪功の娘、西島秀俊は不要。
  • 前妻と後妻が友情にたどり着く前の戦いが足りない。前妻が後妻に対してただのいい人にとどまっている。