黄色い雨/フリオ・リャマサーレス木村榮一訳)
「・・・しばらくして、私は理解した。どのようなものも以前と同じではない、思い出といっても、しょせん思い出そのものの震える反映でしかないのだ、また、霧と荒廃の中に消え去った記憶を守ろうとするのは、結局は新たな裏切り行為でしかないのだということを。」
死者たちと暮らすこと、一つの場所に記憶が沈殿していること、その場所(黄泉の世界)をさまよう主人公、という点でルルフォ「ペドロ・パラモ」(岩波文庫)に似た感覚があるが、あれほど技巧的でなく、終始語り手が一人であり、つくりがシンプルである代わりに、言葉の重みがある。

ウィッカーマン/ロビン・ハーディ

  • 島に着いた小型飛行機から警官が出て来て島民に船を出すよう言うが、聞こえないとみるや、すぐに拡声器を出して島民に船を出すよう命令する。主人公であるこの警官に対して、この男ちょっと変だな、というのと、偉そうな嫌な奴だな、という印象を受ける。同時にとても滑稽。同じ滑稽さは映画中何度も出て来るし、最終的には自らの破滅を呼び寄せるものの現れで、とてもよいファーストシーンなのだけど、以降、主人公の使命感と横柄なところばかりが目立って、滑稽さが減っていくのはとても残念。
  • 上陸して話をする島民達の素朴な感じと、それとはうらはらな言動の不気味さ。
  • 宿屋の女を初めて見たとき、美しさに主人公が動揺する所がうまく表されていない。その夜、女が隣室で歌い、男が欲情にもだえるシーンも、滑稽さが足りない。この女が最後までうまく機能しなかった。
  • 同様に、主人公が食事を終えて外に出たときに野外でたくさんの男女が性行為をしている。それに対する主人公の動揺が見えない。幻想的なシーンになっている。
  • 土中の棺桶を掘り起こし、空けると、中には死んだ女ではなく、野兎が入っている。野兎のアップ。
  • 宿の男を出し抜いて縛り、その男の着ぐるみを着て、女を助けにいく。その過程で縛られている宿の男のカットが2回出て来るが、結局全ては罠なわけで、2回もそのカットを出すのは単に観客を扇情するためでしかなく、下らない。
  • 全て罠だったとわかってからウィッカーマンに生け贄として入れられるまでが長い。外に出ると崖で、クリストファー・リー達が待ち受けていて全てがわかるカットはいいが、そのあとはすぐにウィッカーマンに入れられている主人公、となっているほうがいい気がする。全て罠だとわかった時点で、キリスト教=正であり、より進歩している、という主人公の傲慢さが崩れていく所はとてもよい場面のはずだが、長い。それはウィッカーマンの中の主人公とクリストファー・リーの会話で行われるもので十分。
  • ウィッカーマンが燃やされ、中に入っている主人公の主観で、村人達が踊っているカットは素晴らしいが、燃やされている最中に何度かそのカットが出る。最後にはそのカットの手前側から火がめらめらと上がって来るものだと思ったらそうではなく、全部同じカットでがっかり。