2005-10-15

世界/ジャ・ジャンクー
映画の主眼は北京と世界公園の風景を映すことにあるらしい。まがい物の世界と、その外の本物の北京の残酷さ。ひたすらその比喩が映像として映され、ストーリーは緩く、スケッチのように北京と公園での日々が語られる。その緩さは風景を重んじることの代償なのだろうか。そのことが自分は不満だった。北京ではちんけな成金がふんぞり返って金で女を釣ろうとし、田舎から出て来た貧しい男が建築現場であっけなく命を落とす。主役の二人はそのどちら側(富裕層と貧困層)とも関係を持つが、その関係はあくまで緩いものであり、その渦に巻き込まれることはない。女が北京に遊びに出て成金男に口説かれるが、女はすぐに逃げる。なぜすぐに逃げてしまえるのか。男の友人は建築現場で命を落とし、男は泣き崩れるが、彼らの友情と現在の立場の違いを見せるシーンが少なかったために、彼の悲しみが伝わって来ない。彼は友人の死に、間接的にも関わってはいない。立場が違ってしまって、または現実に翻弄されて関われないことの残酷さが映されたわけでもない。男が金持ちのデザイナーの女と浮気をしているのも軽い付き合いであり、深刻さは見えないが、深刻でない皮肉さ、残酷さもあまり感じられない。主人公二人は北京の現実に深い所まで浸食されることはない。浸食される残酷さもなく、浸食されないことの悲しみもない。そのことが不満の理由だと思う。パスポートうんぬんで象徴的に見せられても、行為を伴ってなければ、リアルに感じることはできない。
主役の男と金銭の関係が少ししか示されなかったのも問題なのかもしれない。主人公と建築現場の二人の友情や隔たってしまった距離、金銭的な問題などを示すシーンがなぜなかったのか。同郷である彼らが、仲が良いようには見えない。それが希薄な関係を示しているならば、希薄であることを示す会話、やり取りが必要だと思うが、それはあったのだろうか。自分は気づかなかった。
映像はすばらしい。音もいい。アニメーションも悪いと思わなかった。それだけに風景をある程度犠牲にしても、ストーリーの緊密さ、主人公達と北京の現実との関わりを、もっと突き詰めてやってほしかった。
「一瞬の夢」以降、自分にとってはジャ・ジャンクーの映画は少しずつ、確実につまらなくなっている。それは一作ごとに、風景としての映像が、ストーリーを上回っていっているからだと思う。ジャ・ジャンクーが映像自体の豊かさ、映像自体の力に加担するほど、自分が見たい「フィクション映画」からは遠ざかっていく。世界公園という場所は、風景に加担するジャ・ジャンクーとしては最高の舞台だったと思うし、実際にその風景は素晴らしい。ミニチュアのピサの斜塔の前で写真を撮る人々の間抜けさと空虚さ。しかし、テーマが偽りの繁栄、変貌する中国が内面を失っていくさま、であるならば、主人公がそれにさらされている姿が見たい。「一瞬の夢」の主人公のように。「一瞬の夢」の主人公は変化する中国になすすべなくさらされている。かつての友人は資本主義の波に乗って成功し、主人公と関わるのを拒む。彼が好きになった女は商売女であり、金銭に絡んであっさりと姿を消す。なすすべなくさらされる主人公は、変化に乗れない人間の代表者だった。
どうしてもエドワード・ヤンの「カップルズ」のことを思い出さずにはいられなかった。あの映画で主人公の少年達は大人達をまね、勝者=成金になるために、結社を作り、恋愛も金銭に還元し、のし上がろうとし、間違いに気づくことなく敗北していった。あの痛ましさは、彼らが時代を覆う価値観を大人よりも純粋に感じ取り、純粋にそれを目指す姿にあった。「世界」の男女から痛ましさを感じることは、自分にはできなかった。
建築現場の二人、田舎から出稼ぎに来た二人をもっと見たかった。二人を主役にした映画を撮り直してほしい。