2005-10-16

家で雪の断章ー情熱ー
田中陽造脚本、相米慎二監督
田中陽造らしい話、と言っても原作があるのだし、原作を読んでいないので比較もできないのだけれど。
基本の三角関係があり、それに付随して複数の三角が存在するのは「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」と同じ。二人の男は陰と陽、または分身のようであり、榎木孝明世良公則藤田敏八原田芳雄にそっくりで、ジキルとハイドの物語でもある。
世良公則が女を殺すのは斉藤由貴の復讐を、榎木に代わってしているわけで(事実としては違う)、実際、殺す理由は語られない(刑事が理由を語るが、その理由は観客に聞き取れない)。しかし、世良の犯行の証拠をつかんで間接的に破滅に追いやるのは斉藤由貴である。彼女の願望を果たした人間を罰するのも彼女なのである。斉藤由貴の、性や生い立ちや他者への愛といった子供と大人を分ける問題に面と向かわせる、という仕事と、復讐という仕事を終えて自殺する世良は、父の役割であるがゆえに身動きの取れない榎木の分身であり、仕事を終えて消える(榎木と一体化する)のは当然のなりゆきだろう。自殺しかけた世良の「一緒に生きてくれるか」と言う問いに応え、合格した大学も捨てるという彼女の行動は、少女の自己献身願望が溢れていて笑ってしまう。
冒頭10年間の出来事を10分程の擬似ワンカットで見せたり、心の乱れた斉藤由貴無人駅で道化師たちと出合ったり、事の成り行きを自動人形が見つめ続けていたり、というおとぎ話を模したメルヘンチックな演出は、陳腐さと紙一重だけれど、心ここにあらずの、夢見がちな斉藤由貴の様子と合っていて、陳腐さを免れていると思う。実は全部、冒頭で川に落ちた斉藤由貴の夢でした、というオチにならなくて良かった。そうなってもおかしくないほど、絶望と希望の間を彷徨う少女の夢と欲望とオブセッションに終始した映画だった。「ツィゴイネルワイゼン」が終始中年男の妄想の映画であるのと同じように。
花屋だか喫茶店だかで、椅子に座ってメリーゴーラウンドのように回りながら、「ゆやーんゆよーん」と中原中也の「サーカス」を口ずさむ斉藤由貴の、遠い目と、彼女が川に飛び込むのを空撮で捉えたショットが印象に残る。