田中陽造
心の底で望み、かつ恐れていること、心の中ではリアルであるが、リアルすぎて現実には起こりえないだろうと思うこと、または本人自身が抑圧していた欲望の現実化、それが起こる。ヒッチコックの映画を見るといつもそれを感じる。田中陽造の脚本のいくつかのものにも感じる。
田中陽造脚本でレンタルされているものを最近まとめて見たのだけれど、自分が気になったいくつかの映画では、主人公以外の登場人物達が皆、主人公の内面の何かを体現しているように見える。世界が主人公の頭の中を反転させたようなものであり、全ての登場人物が、主人公の欲望や現実との葛藤といった内面を映したもののように見える。しかしそれは、世界が狭いというのとは違う。人間にとって世界は、各々の人間の目から見たものでしかなく、だから自分を含めた人間達のことを、自分の色眼鏡で見ていることになる。他者には自分の欲望や怖れや期待が転写されているわけで、逆もまたそうである。田中陽造はその視点から脚本を書いているのではないか、と思う。しかしそれが例えばデビッドリンチと違うのは、明らかに監督たるデビッドリンチの妄想として描くのではなく、それこそが世界だ、というふうに描いている点だと思う。「マルホランド・ドライブ」や「ロスト・ハイウェイ」は主人公の妄想世界の映画だけど、結局主人公というよりもデビッドリンチの妄想世界を見させられているという気持ちになってしまう。

ローラ殺人事件オットー・プレミンジャー
何度見ても大好きな映画。推理ものとしてみればつまらないし、なにより展開や細かい部分は無理が多い、というよりも、無理が多すぎてそれがかえってこの映画全体を覆う幻想性を強めている。犯人探しよりも、登場人物たちの欲望が明らかになっていくことのほうにこの映画の主眼があるし、魅力もある。自分にとってのフィルム・ノワールと言われる映画の魅力がこの映画に詰まっている。
全ての登場人物が一癖あり、誰からも愛されるようなキャラクターは一人もいない。全てのシーンに登場人物の欲望が映し出される。とりわけ、類型的にいやみな文化人(クリフトン・ウェッブ)が本当に不愉快なのだが、最終的にはぐっときてしまう。この男は恐らく不能であるが、そのことははっきりとは語られない。ジーン・ティアニーとの最良の思い出として刑事に語られる内容から想像されるのみである。つまり、ティアニーにとってウェッブは恋人ではない。だから他の男を恋人として求めても全然おかしくないし、ウェッブもその点でティアニーを責めることはなく、ただひたすら邪魔をする。ではウェッブにとってローラとは何だったのか。そのことが映画の最後で語られる。
主人公たる刑事は無愛想で、皮肉で、携帯の野球ゲームばかりしているし、殺されたローラの肖像画を買って、ウェッブに死体愛好者と言われても反論できない。この刑事自身が、他の登場人物に引けを取らない欲望を持っていることが示される。
映画全体が不安定で夢のような雰囲気をかもし出しているのは、語りかたのせいだと思う。冒頭からクリフトン・ウェッブの日記のナレーションで始まり、ウェッブのラジオからの(録音された)言葉で終わるのだが、途中、ローラとのなれ初め、事件に至る経緯をこの男が刑事に語りはじめ、フラッシュバックしていく。この映像が、ウェッブが自分の目で見たはずのない映像を映し出す。これによって、見ているほうは、この映像が客観的な事実なのか、ウェッブの頭の中の映像、思い込みなのか、よくわからなくなる。映画自体が、どの視点から語られているのかわからなくなる。この矛盾、混乱がこの映画全体を覆う幻想性につながっている。その混乱は、後半の展開において映画そのものの混乱、現実と幻想の見分けのつかなさにつながる。後半の展開は刑事の妄想にしか見えない(後半のきっかけとなるシーンは夢としか思えない1カット内の処理をされている)。しかしその状態のまま映画は進み、終わる。