葬儀の際に、死者の最後の顔を携帯電話で撮影する人が増えていて、葬儀業者の人が、いかがなものかと嘆いているという記事があった。不敬ということらしい。
一般的に携帯で撮影する姿が軽薄に見えるのは確かだ。しかしそのことだけなのか。きちんとしたカメラで撮影したらどうなのだろう。
かつて荒木経惟が末期の妻を写真に撮影して発表した。お棺に入っている写真もあり、篠山紀信がそれを批判したことがあった。
写真と死は深い関係がある。写真は過去に属するもので、極端にいえば「それはかつて存在した」ということのみを語っている。そこにおいて写真は死に近づいている。絵画で肖像画を見ても、「かつてこういう人がいた」という感覚が第一に来ることはない。
亡くなった人の写真を部屋に飾ったり、財布にしまっておくことは普通に行われている。しかし、それらはほとんど生きているときの写真である。
かつて、幼くして死んだ子供を撮影して写真に残す習慣があった。眠っているかのように服装その他を整え、準備され、撮影された。それが死を悼むこと、記憶にとどめることだった。写真を日常的に撮影する習慣がなくて、とどめておく写真が存在しないから、死んでしまった後で撮影するということもあるのだろう。しかし同時に、人のフェティッシュな欲望があらわになっている。オブジェのように、それを形にとどめ置きたいという。
現在から考えると、それがやや不気味な行為に思われるのは確かだと思う。しかし、なぜ不気味なのか。なぜ、生者を撮影することは普通で、死者を撮影することは不気味なのか。どちらも記憶にとどめるためであるのに。
葬儀のときに死者の顔を携帯で撮影するのが不敬であるというのは、それが、死んでいる人の顔だからで、それが何に対して不敬なのかといえば、生き残った人々の、死者に対する観念に対して、だろう。死んだ人は何も語らないのだから。記事には「自分が死んだら死に顔を撮影されたくない」と書いてあった。生者が、死んだ人に思いをなして、撮影されたくないだろうと想像する。そこには死はみじめなものだという観念がある。
あるいは、人を撮影するには相手の同意が必要である、という考えが、不敬の理由かもしれない。死者を、その同意がないのに撮影するのは、失礼ではないかと考えること。死者のプライバシーを侵害していると感じること。
しかし、写真は本来撮る人の欲望に基づくものである。
死者を撮影する行為には、確かにフェティッシュな欲望が表れている。死者は撮影者にとってオブジェと化している。しかし、対象が生者であっても死者であっても、それは根本的には同じことなのではないか。
他方で、葬儀で死者を撮影する人は、死者=モノ、と考えて撮影してはいないと思う。彼らにとっては死者はまだ、生きている名残をとどめた生者だからこそ、形に残し、記憶にとどめようとする。
撮影する人は、死者を忘れないために撮影するのであって、「それはかつてあった」ことを、かつてその人が存在したことを、忘れないために撮影する。
死者を撮影する行為が不敬だというならば、根源的に、あらゆる撮影行為は不敬ということではないのか、と思う。
それに対しては、すべてを「かつてあったもの」としてしまう写真とは基本的に不敬なものであり、そうであっても「それがかつてあった」ことを確信するために、その欲望を形にするために、それを撮影せざるを得ない人にとっては、写真が必要なのだ、というしかない気がする。
自分だったらどうか。生き残った人が好きなようにしたらいい、と思う。写真を残して記憶にとどめたいと思ってくれる人がいるというのはありがたいことだと思う気もする。ただ、心を許していない人間に死に顔を撮影されるのはやはりうれしくないような気もする。
死者に思いをいたして、きっと相手がそれを許すだろうと想像し、なにより自分はそれを残して記憶にとどめておきたいのだ、という答えを得た人だけに、撮影は許されるのかもしれない。

しかし、その想像する相手は本当の相手ではない、頭の中の相手に過ぎない。人物の写真撮影を、対話的なものと考えるならば、死者の写真はやはり撮影できないことになる。