タイトル変える。

次郎長三国志 第六部、七部(東宝)。
冠婚葬祭感が強烈。六部はやや辛気くさいが、そのせいで七部では、弔いのムードが映画を覆って異様。合間で唐突にお祭りになるのも。祭りと弔いが交互にやって来る。同時に現実的な、家族の再構成の気配も見られる。長門裕之とお仲の擬似母子のくだりは近親相姦のイメージも濃厚。それに対する次郎長の長門へのリアクションはデリカシーがまるでなく、もうろくしてみえる。山場がややぐだぐだになっていたがそれも気にならない。
スタンダードの画面は本当に美しい。
東映版の次郎長が鶴田浩二によって、モダンなやくざものになっていることがわかる。鶴田浩二の次郎長はものごとを決定する家長で、自我、個の姿が見える。東宝版の次郎長は個があいまいで、母のようでもある。
六部でよかったのは、次郎長が夢を見ているのと同時に、お蝶が廊下で、世話になっている夫婦が困っている会話を聞いてしまい、次郎長の寝ている所に戻るところのつながり。サイレント映画の良さが受け継がれている。三者の事情、感情が一連のつながりで見られるところがすごくよかった。あとはなんといっても森繁の石松。森繁がアップになるカットはすべていい。越路吹雪のなぜかわからない強さと色気もよかった。最初に七五郎を一人待つ芝居とその後のつながりが色っぽくていきで、じっくり見せられることが贅沢に思える。ただ、最後のシーンなど、次郎長がもうろくしているように見えてしまうのと、どこかおやまっぽいところがあって、七部で長門裕之に抱きつく所とかかなりあやしい。一家の運営には大政がかなり尽力しているようだ。実際、下のものたちの意をくみ、ことを動かしているのは大政で、次郎長のほうはたてまえの前で身動きが取れない。次郎長は一家の超自我の役割を果たしていて、大政の自我がそれを現実に適応させている。鶴田浩二が、きびしさとやさしさと寡黙さを兼ね備え、最終決定を常に行っていたのとは対照的。一家のあるじ像がかなり変わっているように思う。全部見てから改めて考える。
渋谷シネマヴェーラは学生証出すと600円で、入れ替えなしで、予告編もないのは素晴らしい。
世の映画館の予告編の長さに規制かけてほしい。せめて合間の明るい時間にやるとか。
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昨日のラッシュ。
長廻しの面白さ。複数の感情と、その変化が見えてくる。密度が濃い。
昨日見た屋外での長廻しのところが好きで、行き場のない複数の人物のエモーションが、直接的ではない遊びのような動きの中から見えてくるようにみえるからだった。
セーラー服と機関銃であまり好きではないところは、でんぐり返しのような動きが、自分にはただ無意味な動きに見え、微妙な感情がそこから見えてくるようには、みえなかったからだった。雪の断章ではそれがうまくいっていたように思った。