次郎長三国志 第八部、第九部(東宝
八部すごい。今回も祝祭と死が同時に起こる。
全体にそうだけど、とくに最後15分くらいは夢のようで、最後の数カットは完全に夢の次元に入っているよう。「サンライズ」のようなサイレント映画に見られる、夢の、現実を越えたなまなましさ。ベールが剥がれて露出している感じ。
八部最後の2カットは九部への予告の意味を込めているのだろうが、夢のように見える。ここでシリーズが終わりでもいい。
しかし、誰の夢なのか。
東宝版六〜九部を見ると、次郎長一家全員で分担して、一つの人格を成しているようにみえる。
六、七部でもうろくしたように見えた次郎長は、八、九部ではほとんど出て来ない。七部では仏壇の前で背中ばかりを見せていた次郎長はもはや人ではなく、一家の倫理そのものになったかのようで、形を持たず、子分たちの心のなかにいるかのよう。
八部の旅のきっかけでは、次郎長の石松へのいいつけが、どのレベルの規範なのか、子分たちが話して、あれこれ想像する。
九部では、子分たちは画面には決して現れない次郎長=倫理の元にあって、自分たちの行動を決めていく過程が示される。ときおりの使者が、次郎長の意志を短い言葉で伝達する。子分たちはその意図を解釈し、行動に移す。ようやく終盤、子分たちは次郎長と出会うのだが、次郎長はやはり多くを語ろうとしない。現実のレベルで指示を出したり、罰したりしない、抽象的な、象徴的な存在になっているようにみえる。子分たちが殴ってくれ、蹴ってくれと頼んでも、なにも返ってこない。
九部の冒頭がとても好き。異様なタイトルと、幻想のような、次郎長一家が声だけの幽霊になったかのような荒神山
それから百姓から罰を受けるために皆が輪になってぐるぐる回るところ。意味がわからないが、おかしくてしかたない。わっしょいわっしょい言って、罰を受けるところなのに、お祭りになってしまう。
九部は、次郎長が離れていることで、子分たちが、任侠道とは何かを模索する旅になっていて、自らにモラルを問うていく内容になっている。他方、石松への哀悼があまり示されないのが気になる。異様な冒頭のタイトルと、討って出たという行為があるにしても、死者への弔意、エモーションは画面に希薄。死者に対する問題より、農村とやくざの関係や、やくざ組織の力学の問題にテーマが変わっているように見える。
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自分にとって重要なのは三角形ということ。
二者は生きた人間だとして、三つ目は生きた人間でなくてもいい。死者、幽霊、分身、社会、世間でもいい。いずれにしても三角形ということで、二というのは存在していない。二者の関係に見えるものも、面白いと思うものは、必ず第三者が存在している。四角形以上は複数の三角形に還元される。
次郎長三国志の九部であれば、次郎長の子分たちー次郎長(映らないけど)ー敵方(または百姓)
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「フランシス・ベイコン[磔刑]」(イェルク・ツィンマーマン、三元社)、ベイコンの「磔刑」のトリプティクに焦点を絞り、他の画家の磔刑の図も多数引用されていて、面白い。ベイコンが、磔刑図であらゆる感情を表現できると言っているのが面白い。