ラストデイズ(ガスヴァンサント)、シネマライズ
歩く後ろ姿の傾いた姿勢が、これまで生きてきた痛み、生き残ってまだ地上に存在している痛みを伝える。
その姿はどうみてもゾンビで、その、精神の死から肉体の死までの、ゾンビの時間を描写しているとも言える。
食べるものを準備する姿の、半分壊れたロボットのような習慣の無意識的な感じが、なぜ食べるのか→なぜ生きているのか、という問いに誘われる。冷蔵庫に入れられるシリアル、注ぎ足される牛乳。流される湯。
それに対して、冒頭の放尿が美しい印象として残る、音を出す場面と同じように、空虚に見える人間の、空っぽの器のような体から、出てくるものがある、放出されるものがまだ残っていること、そこに人間がまだ存在している感覚に心を動かされる。
欠如感を埋めるための、人生のさまざまな価値、義務、快楽が主人公の前に現れ、その全てに関心が失われていることが順次示される。東京公演のセックス、セールスマンの話、薬物のすすめ、ボーイズ?メンのPV。
虚無に至る過程はなく、虚無そのものの時間が示される中で、主人公がもうよりどころにはできないが、誰に聞かせるためでもなく、演奏する音とリズムは、最後に残った感情と魂を顕し、美しい。
最後、冷たい友人が弾くギターの音もその心なさ、空虚さとはうらはらに、思いがけず美しい。
スタンダードのフレーミングされた全てのカットが美しく、森の緑、特に横移動などゴダールを思い出し、視覚的な快楽は満たされるが、全体に長い。
変化のない虚無の、人との関係ももはや起こりえない状態を、時間そのものとして見せようとしているとしても、もっと短くしてほしいし、物足りない。
エレファントの方法を進めて、リアルな時間と存在の感覚を映画に導入しているが、ホウシャオシェンやゴダールのようには、成功していると思えないのは、はしょりかたとドラマの作り方のせいか、遅い、と感じて、映画の時間をコントロールできていない感がある。主人公が出てこない双子のモルモン教徒や車で来る音楽業界の二人の場面など、必要なのか疑問。主人公が出てこない場面は、この映画の場合、不要に思える。
主人公の虚無の時間があり時間とともに身体の存在があり、と同時に世界が、人とは別に存在していることを見せていくのは、見る側としてはこういう映画があってよくて、新作が来ればまた見に行くけど、虚無であってもそれを人との関係、ドラマとして見たくて、もう少し、人とのかかわりあいが見たかった。
すでに陥っている虚無と、それと相反する美しい音楽、不幸と美しさが反比例するというのは、クリントイーストウッドの「バード」を思い出すが、物語のありよう、立っている場所は全く異なる。あの映画の人物たちも、主人公から搾取することしかできない人間たちだったが、主人公にとっての他者としてきちんと存在しており、物語が映画の中心だった。この映画では主人公と世界の距離としての風景が映画の中心になっている。