ドッグヴィル」と「バレット・バレエ」と「ジョゼと虎と魚たち
ドッグヴィル」舞台でやるより本物の風景で見たい。舞台でやることのメリットがわからない。いつ本当の風景に変わるのかを唯一の楽しみにして見ていたのだが、結局変わらず。寓意がわかりやすすぎて退屈。主人公のちまちました道徳心、宗教心などどうでもいいよ、という気になってしまう。ニコールキッドマンというハリウッド美人女優に対する大衆の欲望を映画の中で暴く、というのもひねりがないのであまり面白くない。悲愁物語のほうがいいと思う。ジェームズカーンはかっこよかったがローレンバコール、ベンギャザラという大好きな俳優に見せ場がないのがとても不満。
「バレット・バレエ」感傷的すぎる。話がうまくまとまっていないが、現世では結ばれない二人、という、以降も続けられるテーマ、ロマンチズムが一貫しているのが好き。徹底した現世否定の態度も。手作りした銃の生々しさはクローネンバーグを想起させ魅力的。彼女が主人公に思いを持つ場面がうまくない。
ジョゼと虎と魚たち」見るに耐えないベッドシーンやキスシーン。他にも多々。しかし池脇千鶴を画面に見るだけで涙腺が緩んでしまう。基本的に不具へのフェティシズムや欲望があって、それはSM雑誌が二人の恋の始まりにつながり、恋の終わりにも出て来る所からも明らかなのだが、その欲望を隠蔽しているせいで、男のハーレクインロマンスになってしまっている。それが醜悪なラブシーンにつながる。下品なポルノと自己憐憫。男が安っぽいのは構わないが、ナルシスムが見えすぎるのが不愉快。深海魚のラブホテルでした一番エッチなこととはなんなのか、そこが重要になるはずなのだが、中途半端な形で少しだけ見せられ、話にもつながって来ず、本当に不快。そこで池脇千鶴が死について語る。それは幸福な状態を見つめる彼女のありようが語られるわけだが、手前のセックスがうまく表現されてないのでぴんとこない。なえた足が欲望の接点として映されることがない。足を触るシーンは必要だろう。原作にもちゃんとある。そこをやらずに退屈なごく普通の性行為を見せられても陳腐なだけ。しかし池脇千鶴が出るだけで泣いてしまう自分はなんなのか。「こわれもの」(無垢)という祖母の言葉。(男から見て)少女であり(常識を知らないが知ったかぶりする)娼婦であり(気持ち悪いおっさんに乳触らせてゴミ出させる、一緒にいる代価としてセックスを提供する)、母性である(料理がうまい)女と、それを自ら失う男という定番の話はそれだけで緩んでしまう。「ギター弾きの恋」も「道」もそうなのだが、それらの主人公は自意識が希薄で、自分の愚かさに気づかないために、失ってしまうのだが、この映画では、自意識、自己を守るために自ら手放す。初めてのセックス時に泣きそうと自白するようなナルシシズムが彼を守り、それを維持するために女を捨てる。自己を越えて「経験」することのできない愚かさが描かれているとも言えるが、それが面白いとは思えない。
津原泰水「蘆屋家の崩壊」「綺譚集」再読。神経症ぶりがたまらない。綺譚集の方言は同郷だがとてもよい。「頸骨」「ドービニィの庭で」傑作と思う。