ミュンヘン(スピルバーグ)を観た。
70年代のアクション映画を思い出させるざらついた、褪せた映像は銀落としという技法を使っているそうだ。窓ガラスを使う等の演出も70年代を思い出させる。映画の舞台が70年代であることが、ただのスタイルではない、意味を生んでいる。
恐怖の表現は宇宙戦争とこの映画で極点に達していると思う。観ている間中、寒気が止まらなかった。
一番恐ろしいのは、自分が立っていると思っていた基盤、価値が根拠のないものだと気づくこと。敵だと思っていた価値が内在し、自分を蝕んでいること。その時、周りの世界も崩壊する。ヒッチコックやフリッツラングが見せた恐怖の形がこの映画で徹底されている。
主人公が感じる恐怖と、主人公の行為への恐怖の、どちらも感じさせられることで、恐怖が二重化され、感情移入する場所を失い、宙ぶらりんになる。
フリッツラングのMの終盤で、悪役たる人物の恐怖のほうを感じてしまうのを思い出す。
冒頭から正しいことがどこにも見当たらない状況で恐怖が続き、宙ぶらりんの状態でただ見続けるしかない状態が、映画の終わりとともに投げ出され、そのまま宙吊りにされてしまう。
最後のシーンとツインタワーの映り方の関係が、あの辺りの地理関係、建物の位置関係がわからないために、つかめなかった。
役者が全て素晴らしかったが、特にルイ役のマチュー・アマルリックが素晴らしかった。自分でも映画を撮っていて、ゴダールに絶賛された、と書いてあった。
シナリオの一人トニー・クシュナーが原作脚本のエンジェルス・イン・アメリカを借りてみることにする。

あまりに寒いのとミュンヘンに疲れてダグラスサークナイトはあきらめる。

エリ・エリ・レマ・サバクタニと三角関係、共同体について。
かつて、三角関係または四角関係が存在して、ふたたび三角関係が再現される気配を察知し、一人が死を選ぶ。そう読み取ることもできる話なのだが、三角関係やホモセクシャリティを示す映像は意図的に排されているように思われる。そう感じられるのは、アスハラのミズイへの思いを示すカットが少ないせいだろう。過去のフラッシュバックやレストラン/ペンションでの遭遇においてそれは顕著で、三角関係、嫉妬、ホモセクシャルを明確に示すカットや、アスハラの葛藤や嫉妬や愛情を示すカットがごくわずかしか見られない。視線がないのだ。それだけにわずかなそれらのカットが印象的でもあるのだが。ディアハンターで、ロバートデニーロがクリストファーウォーケンに示す愛が苦しいほど示されるのとは対照的だ。
一度目に見た時は、そのこと、アスハラのミズイへの感情がほとんど示されないことが不満だった。しかし、それは、この映画がそういう映画ではないということだ。
なぜほとんど排されているかといえば、三角関係やホモセクシャルの話に行かないようにしているということで、ではなんなのだろう。セクシャルなもの(だけ)ではない、他者との関係性。二人は隠棲している。二人は共同体から距離をおき、かつ、ばらばらに暮らしている。二人は宗教的活動のように、共同して音を狩猟し、食事をし、別の場所で眠る。それから、食事をする場所としてのレストランと岡田茉莉子がいる。共同体から距離を置くと言っても、隔絶した生活というわけではない。ラジオを好んで聞いているようでもあるし、金銭も使用しているだろう。彼らはある生活のありかた、大きな共同体から少し離れた、小さな共同体のありかたを築こうとしている。その小さな共同体の重要な役割は、死者を弔い、記憶する、ということにあるらしい。
無為の共同体/J・L・ナンシー(以文社)」を読み直してみることにする。