ミュンヘン(2)

主人公の父親が最後まで姿を見せないのが気になる。今は病気だという元英雄の父親。息子が英雄になった時、病室だか父の家だかで二人が出会うシーンがないのはなぜだろう。その代わりというのか、母親が恐ろしい。冒頭のシーンでも最高権力者は女性だった。
宇宙戦争で、ダコタファニングはトムクルーズの母親であり元妻だった。映画では出て来ない、神経質で、夫に似てがさつな息子を疎ましく思う母親と、妻のエコーを、トムクルーズはダコタファニングに見ている。
マイノリティレポートでも映画の中で主人公を導くのは、システムの設計者である女性(母親)であり、それによって破滅するのは「父親」だった。
ここ数年のスピルバーグの主人公はいつも帰属する場所を失い、母親(妻や恋人)からの愛を獲得するためにさまよっている。

ミュンヘントニー・クシュナー脚本「エンジェルスインアメリカ」は4月からレンタル開始だそうだ。

エリ・エリ・レマ・サバクタニへの補助線として柄谷行人を再読する。
「故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。」
単独者としての社会。共同体ではなく、社会。人間とは諸関係の総体に過ぎない。「総体」とは「全体」ではない。
(言葉と悲劇)