ミュンヘン(3)
主人公の妻が主人公に、あなたの父親はイスラエルだ、と言う。
それにのっとれば、父親が顔を見せないのは当然で、主人公は父親=国家の名誉、威信のために手を汚すことになる。母親はそれを知り、支持し、かつ、それについて聞かない。結果的に主人公は父親(国)を捨てる。
息子ー父という点で、ルイとパパの関係が効いている。それからあの沢山の子供たち。あの豪邸はパパの国であり、ルイはその後継者で、それからたくさんの子供たちに引き継がれる。パパの国を繁栄させ維持することが正しいことであり、そのためには何をしてもいい。
パパとルイの間にある微妙な愛憎関係も、主人公と国家の間と同様、家族と権力の関係につながっている。
そのとき、子供という存在が不気味にみえてくる。
アリが主人公に語る、100年かけてもパレスチナは建国する、という言葉には、子孫、連鎖という前提があり、子供たちはそのための存在である。
主人公が過去の暴力の記憶に蝕まれつつセックスを行うシーンは、まるで、暴力の記憶が精子と共に次の世代に引き継がれ、憎しみや恐怖が次の世代に連鎖していくことを告げているようだ。
恐怖や憎しみの記憶は、経験や理性を超えて、受精した瞬間に、分子のレベルで子供に受け継がれているかもしれない、という妄想を感じてしまう恐ろしいシーンだった。
スピルバーグの暴力表現、恐怖へのこだわりをみていると、トラウマのことを想像する。子供の頃、親たちから聞かされたホロコーストの話が彼の魂に深く食い込んでいるのではないか、親たちの恐怖が伝播し、抜け出せない所に入り込んでいる、と感じているのではないか、と想像する。今でも、スピルバーグホロコーストの夢をみているのかもしれない。
宇宙戦争は、幼いスピルバーグホロコーストのことを聞かされた夜にみた悪夢なのではないか、という気がしてくる。
ミュンヘンの素晴らしい所は、家族や子供まで含めたすべての人間関係があいまいで、信用ならないという印象を、すべてのシーンにわたって見せることに成功していることだと思う。あらゆる人間関係には権力、力学の関係が伴っている。
貿易センタービルが完成するのは1974年ということなので、映画の最後と時期的に符合する。ということは、最後、背景に見えた数本の鉄柱が、建造中の貿易センタービルなのだろうか。しかしそれは、現在の、復興中のそれのように見える。

備忘。『ダーウィンの悪夢』が、3/5(日)夜10:10-0:00、BS1「BS世界のドキュメンタリー」枠で放映されることになったそうだ。忘れないようにせねば。

エリ・エリ・レマ・サバクタニで、2人が生活する場所は、1つの時空から解放されているようにみえる。砂漠と海岸と草原と山が、道路によって結ばれた空間であり、岡田茉莉子のペンションの時計は別々の時間を指し、草原が青々としている翌日には雪が降り始める。

エリ・エリ・レマ・サバクタニの補助線として柄谷行人を読む。
「ロトマンは、さらに「物語」が、内部から外部へ、または外部から内部へ、境界をこえることにあると言っている。・・・それはシステム論のタームでいいかえられることもできる。あるシステム(情報)とその外部(ノイズ)というように。
・・・そして、こうしたモデルにおいては、境界がどちらに属するか不明な曖昧なものとして重要になる。・・・だが、こうしたモデルにおいては、「外」はたんに内部から投射されたイメージでしかない。
・・・閉じられ組織された内部から出発するとき、われわれは一貫したモデルを作ることができる・・・それらは、そうした構造を閉じるもの、構造を構造たらしめるものが何であるかという問いを欠いている。・・・日本語でいう「空」とか「間」は、全システムを可能にするある空虚なのだ。しかし、こうした「空」の働きは、すでに出来上がった構造を説明するのに不可欠なものである。・・・実際は、共同体(内部)としての世界の構造を説明するものであって、そこでは、その外部は無視されている。・・・実はそこで消されてしまうのは、共同体と他の共同体の境界、あるいは「空=間」である。
・・・他者は、異なるルールをもった異質な人間であるにもかかわらず、むしろありふれた存在である。・・・ひとが他者を見いだすのは、そうした文化空間をディコンストラクトするような「世界」においてのみである。」
(ヒューモアとしての唯物論