スペシャリストの帽子」が最高だったケリー・リンクの短編がSFマガジンに掲載されていた。
エスクワイヤの本の特集。リムアートという本屋を知らなかったが、そのインターネット上で見られる本はどれも美しい。欲しー本は高い。

人と会う元気が出ない。集団の打ち合わせは無理。
すみません。

ダグラス・サーク講義3回目。
悲しみは空の彼方に」を観た。
たいへんな映画だった。
昼のドラマなら1年かかる内容が2時間。
しかし、はしょっている感じはしない。
例えばハルマゲドンを見たときに、ずっと予告編を見せられている気がするのとはまるで違うのは、何を見せ、何を見せないかという技術の問題。
サラ・ジェーンを、母親が訪ね歩くシーンが強烈で、母親は心配して来るだけなのだが、サラ・ジェーンにとっては悪夢。
消し去りたい刻印がどこまでも追いかけてくる恐怖を感じる。
そして、ふいに母親の目の前に檻が現れる。店内の仕切りや路上の手すりが柵に変わる。
家族は抑圧装置であり、愛情も人を縛り苦しめるものとしてしか機能しない。
風と共に散るや、翼に賭ける命と同様、自分で自分を疎外している者がいて、そこにはもちろん社会的背景、世間からどう見られているか、がある(大金持ちのぼんぼんであること、勝手に英雄に持ち上げられること、半分黒人でありながら、肌が白いこと)のだが、その圧倒的な孤独、虚無感があり、周りの人間もその孤独に引き込まれていき、しかし、なすすべなく、崩壊していくのをそばで見守るしかない。
渦巻きに呑まれる人を近くの小船から見ているという感じ。
崩壊をただ見つめる視線は、小津に通じる無常観が漂う。戦後はすべてそうだが、特に、宗方姉妹、風の中の雌鶏、東京暮色のこと思い出す。ただ、小津の人物は、崩壊に向かって暴走する人物はあまりいない気がする。東京暮色の有馬稲子くらいか。東京暮色は小早川家の秋の次くらいに好きだ。

ラストシーンが異常なのは、どう見ていいかわからないから。死の悲しみという1つの感情で見ることはできず、数種類の悲しみに皮肉とサタイアが加わり、そのうえ、出来事自体があまりにも過剰で、困りつつ、圧倒され、悲しい。
原題の imitation of life は、むしろこっちのことだったのか、と、どんでん返しに驚きつつ、しかしただのどんでん返しではないのは、黒人たちが画面に次々映されることからも明らかで、被差別者の孤独を一身に背負った、一種の英雄の形を取ることになる。しかしそうでありながら、何度もインサートされる小部屋からの窓越しの映像が、そのことを裏切る。さらに娘が出てきて、最後に謎のエンディングがあって、あのシーンの中で4重くらいの反転、意味の変容、差異化が起きている気がする。

秋刀魚の味の、スナックの軍歌のシーンを思い出した。派手さ、過剰さという点では比較にならないけど。数種類の感情とサタイアがあって、ともかくどうしようもなく悲しいという点で。その悲しさは人物への感情移入から来る悲しさではない。
人物の行為と、見る側の予測/想像力に断絶が起きている感じ。この人はここでこうしました、というのが、入念な唐突さで起こること。見る側はびっくりする。この人、こんなことするのか、と。それまで見ていた印象と全然違うことが突然起きて、それを見る側は受け入れるほかない。そこで感じるのは、やはり無常観という言葉になってしまう。他にいい言葉があるかな。

小津で崩壊する人物といえば、宗方姉妹の山村聡もそうか。しかしあれは小粒感が漂う。絶対的な悲しみや孤独を背負っているというより、ただ虚無的に見えてしまうのは、行動がないからだろう。背景(インテリなのに仕事がない、妻が自分を好きでない、あともちろん戦争)はちゃんとあるのだが。