神保町三省堂ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」が出てました。

「血は渇いている」や「秋津温泉」では男は虚ろな器のようなもので、各々の時代の社会、世間をそのまま反映する装置のような存在になっている。
「嵐を呼ぶ十八人」では、主人公はありもしない権力と道徳を振りかざそうとして、機能しない。それは彼の男性性が機能しないということで、好きな女をまともに口説けないことからも、不能ということが示されている。

小津の多くの映画において、父親は世間の常識をそのまま受け入れる男で(晩春の娘を説得する場面)、それが悲惨な状況を引き起こしたとしても(東京暮色)、ひとまず喜ばしい状態になったとしても(秋刀魚の味)、彼自身は虚しい状態になるのだが、内省や省察はなく、ただ戸惑うだけのようにみえる。
与えられている条件を受け入れる諦念はしかし、最後の2作「小早川家の秋」「秋刀魚の味」では、ある種の皮肉、サタイアが加えられ、人物への感情移入が許されない、ある意味、どう見ていいのかわからない地点に入っている。