映画と物語の間に距離が生むこと。ある悲劇を語りつつ、その悲劇の主人公に全面的な感情移入を許さないこと。その距離、見る人が、登場人物の運命と、社会/歴史の関わりに対し省察するよう促す距離を、生み出すこと。

スピルバーグは恐怖がすべてを支配することによって、人物に対する距離を生み出している。スピルバーグミュンヘンとその後の事件そのものを扱っているわけではない。ある陰惨な出来事が起きた後、それが、世界や人間に与えてしまう恐怖と、それが増大、連鎖していく恐怖を扱っている。それは人間の歴史や社会や関係、人間間のことでありながら、人間にはなすすべがない。ミュンヘンは、その、人間の世界が生み出す人間疎外の恐怖を扱った映画だと思う。人間中心主義、民主主義、理性が何の役にも立たない世界。

例えば仕事を引き受けるときや、初めて人を殺すときの葛藤、アリらと同じ部屋で過ごす夜とその後の遭遇における描写が足りないと文句をつけることも可能だが、人が理性や判断力において悩むような、「人間的」と一般的に呼ばれる契機を失っている世界=悪夢としての現在の話なのだから、あれでいいのだと思う。恐ろしい契約をかわしてしまった人間の行為と心理の恐怖を扱っているのだから。

明日はポレポレ東中野でエロス+虐殺(吉田喜重