次郎長三国志 第一部、第二部(東映版)
一部、二部は次郎長が売り出すとこでとにかく楽しい。テンポがよくて歌の入るタイミングが素敵。次郎長はじめ、子分たちは他に行き場のない者たちであり、その業や運命を受け入れた上でやくざになっている。
(特に自分の)死を軽く扱う態度が顕著で、ボルヘスがあこがれたガウチョ=ならず者の世界と同じ美意識がはっきり示されている。山城新伍が棺桶に入って自分が納まるか確かめるくだりや、棺桶背負って喧嘩口上にいくくだりがすばらしく楽しい。
次郎長は、道理と度胸のよさで名を上げていく。次郎長の目指す、世間のためになるやくざ像が具体化されていく過程なので、義理と人情、本音と建て前、私と公の狭間での苦悩はほとんどない。鶴田浩二の次郎長はとにかくかっこよくて存在感があるので、事情はどうあれ、東宝版の七部以降をもしリメイクしようとしても無理があったように思う。我慢はできるけど、くよくよしそうにはない。「明治侠客伝 三代目襲名」で、任侠と恋の狭間に立っていたけど、ハムレットのように悩んだりはしていなかった。
山城新伍松方弘樹長門裕之もこの頃はみんなかわいい。
強烈なホモソーシャル。女は憧れでこそあれ、現実には多くの場合、厄介者でしかないことが、東映版4部、東宝版六部、八部で大きな意味を持ってくる。石松は男の世界以外に眼を向けたときに、やくざの世界によって殺される。佐久間良子がたしか「うちの人は男のほうが好きで、男が惚れる男だから・・・」というようなことを山城新伍に釘を刺しているのがあからさまに言われて驚く。
第一部での、かんざしの使われ方。女はかんざしや櫛に還元される憧れ、幻影であり、現実の世界のなかには存在していない。山城新伍のおせんは、ドンキホーテのドゥルネシアと同じ、心の中のアニマとしての女であり、つまり、かんざしなのだと思う。それを松方弘樹が逆手に取ってからかう。しかし松方もやはり、櫛をもらう。
自分の棺桶を背負ってかんざし挿して走ったり、みんな裸のままで街道を走ってそのまま次郎長が普通に説教したり、すぐにわっしょいわっしょいみこしが始まったり、喧嘩の仲裁をしようとしたら乞食坊主がいつのまにか仲間に入ってうなずいていたり、ドン・キホーテ的な叙事的なおかしさにあふれている。