朝眼を覚ますと、鶴田浩二の間投詞が生々しく耳に残っている。覚えていないが、鶴田浩二の夢を見ていたらしい。
次郎長三国志東映版)で、鶴田浩二が発する「おう!」「おう?」「ほー」「ほう」という短い間投詞が、映画中で果たす効果は大きい。意味の限定されない間投詞が、ニュアンスを込めて使い分けられている。意味は限定されず、しかしニュアンスを多く含むその言葉が、映画を見る人の無意識に働きかけてくるように思う。
かつて多くの人が、映画館で見た鶴田浩二と夢の中で再会し、間投詞を再び聞いたのだろうと思う。

次郎長三国志 第一部、第二部(東宝版)
ロケ撮影が特にきれいで、引きの映像がすばらしい。遠景で、集団が駆け回る姿に、叙事詩の詩情を感じる。次郎長一家最初の喧嘩の海、山場の、喧嘩を仲裁する明け方の河原。第二部の敵討ちを取りなす河原。石松が登場する河原。
サイレント期を経た監督のトーキー映画の、サイレントの名残がまだ残っている映画が好きで、この第一部、第二部も、音がなくても人の動き、表情の変化、完璧なカット割りですべてが伝わる上に、音の魅力が上乗せされる贅沢。
先にリメイクの東映版を見たことになるが、おおまかな話は同じなのに、細かく改変されて、かなり印象が変わっていたことがわかる。
一番の違いは次郎長像で、セリフなどかなり同じであるにも関わらず、印象は相当違う。リメイクで意識化されたこともあるのだろうが、東映鶴田浩二が近代的で意識的であるのに対し、小堀明男は無意識的で、田舎の人のいいあんちゃんになっている。それはつまり、一家の家長像の変化である。おおらかで暢気な家長から、気が利いて、美意識の強い家長への変化。
冒頭からして違う。東映版の鶴田浩二は縁日のいかさま賭博に気づき、むっとするところから始まる。道理が通らないこと、いかさまが許せない、という倫理観、美意識が最初から示されている。だから鬼吉を助けるのも理にかなっている。いかさまを知った桶屋の鬼吉が喧嘩を始める。鶴田浩二は、鬼吉が飛び出して目の前に来るまで手を出さないが、小堀明男は喧嘩と見るや刀を抜いて、喧嘩場に飛び込んでいく。どうも軽い。ただの喧嘩好きなお人好しのようだ。
喧嘩口上に来た関東綱五郎を無事に返してやる所でも、同じ行動がまるで違ってみえる。小堀明男がただ無邪気に返しているのに対し、鶴田浩二は、そういう際の常識=ただではすまさないこと、をわかった上で、自分の美意識、倫理に基づいて、返してやるように見える。
かつての兄貴分の料理屋に泊まる所でも、鶴田浩二は、兄貴分の懐事情を察し、金を包んでこっそり渡すが、小堀明男のほうはいたって無邪気で、そんな気は利かず、自分がやめている酒を子分たちが飲むのをうらやましそうにしているばかり。
他のキャラクターはさほど大きな変更はないが、東宝版の次郎長一家が無意識的=集合的で、一家全員で一つの人格であるようなのに対して、東映版は個がはっきりしている。個人が存在している。
2つの作品の差は約10年なのだが、その意識化、近代化ぶりは大きいと感じた。10年でなにがあったのか、というくらいに。
1953年からの10年間の間に、任侠映画の洗練化が進んだのだろうか。あるいはリメイクということがそれを生んでいるのだろうか。それとも役者の差なのか。はなから狙いが違っているということなのか。
どちらが優れているかということでは全くなく、どちらにもそれぞれの良さがあるのだが。
また、虎造の講談=ナレーションの役割も変わっている。東宝版の第一部、二部では、虎造が映画の語り手であり、映画で省略された部分を講談が補っていくが、東映版ではただの脇役に過ぎない。
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映画の前、ARLAR/M.I.A.と、soul jazz が出したSugar Minott のベスト盤と、nightmare on wax の新譜を買ってから、久しぶりにムルギーでカレー。