別のフロアにいる、20代半ばの女の人で、すごい未亡人感を放っている人がいて、たまに見かけるのだが、気になって仕方ない。ほっそりした柳腰の、勤め先でもかなりきれいな人だと思うのだが、見かけるといつも、細い体に地味なグレーの服を合わせていて、長い髪はおおざっぱにまとめられ、はかないような頼りないような、結婚してすぐに夫が戦争に行ったまま、もう何年も行方不明、というようなやつれた感じを出していて、いまどきなにがあるとこんな雰囲気が出せるのかと思い、つい見てしまう。管理課のおじさんとやりとりしているのが、夫の死亡通知書について話しているように見える。
■■■
次郎長三国志 第五部(東宝
その後の暗い展開への転換点となるお祭りのシーンは長い。次郎長とお蝶のなれそめをねだる子分たちは、親にお話をせがむ子供のよう。話している途中で次郎長がお蝶に腕を回して寝転ぶカットが妙に色っぽい。
お祭りで騒いでいる最中に大熊がやってきて、子分らが、無言で喧嘩沙汰を察し、しんみりしていく、その寂しさ。
東映版が明確な軸があり倫理的な話で、東宝版のほうは人情話になっていることがわかる。そのかわり、東映版では東宝版の優雅さ、奥ゆかしさ、物悲しい情緒が失われている。
久慈あさみが勘助の賭場でさいころを振り、素性がばれて、ドスを出すシーンの所作の美しさ。流し目と顔を上げる様。
東映版の倫理性は、鶴田浩二の次郎長が、お蝶に酒を勧められ、一杯でやめるセリフなどにあらわれている。
それから、鶴吉のキャラクターに違いが出ている。東映版では、鶴吉が、次郎長一家と勘助一家の事情を知らなかったゆえに勘助にお仲の素性を知らせてしまった、という説明がされている。なりゆきの道理が示され、悲劇性が明確になっている。お千の嫁入りシーンは、東映版のほうがなんとも悲しくなっている。崩壊の予兆がはっきり示されている。
森繁の石松が眼を斬られるカット。眼を斬られてしゃがみこむ所作の美しさと悲しさ。

次郎長が大きな家を建てて、一家を成す。そのときから、緩やかに崩壊が進み始めている。もはや暢気ではいられなくなり、社会的責任を担うということになり、他の勢力との争いや、仁義と人情や、公と私の葛藤にさいなまれていくことになる。そのままならなさが九部の陰惨さに集約されている。