2006-03-12

家で、日本残侠伝(マキノ雅弘
死んだ長門裕之の歌った歌を、二人が交互に歌い、さらに二人が一緒に歌うところがたまらない。
花火とのカットバックで、四人が敵討ちに向かう。
お祭りみこしが揺れる中で、敵討ちが行われ、生死が交錯する。祝祭と弔いの表裏一体。神話のイニシエーションの感覚がある。
生きることは全て、祭りと弔いに集約されていると言うかのように、ひたすらその二つが交互に訪れるのを見ているようで、祝い事が、その直後に死へと転換するその速さというか、瞬時に変化する様は、「わが谷は緑なりき」などを思い出す。
日本刀から、握ったままほどけない自分の指を一本ずつ引き剥がす最後のカット。カタルシスを奪う悲痛さ。
長門裕之の、妹への近親相姦的にも見える愛情の示し方や、高橋英樹の背中を流す弟分など、一家の家族である人物たちの間には性的にも見える愛情が濃厚に漂っている。この映画の人物達は家族への愛を示すのに躊躇がない。家族につきものの、近親相姦や同性愛へのタブーなどないかのように振舞う。
昨日読んだバタイユの「聖女」にも書かれていたのだけど、愛によって結ばれながら、性愛を抑圧する、矛盾した構造の「家族」を乗り越えているかのようで、それが妙な色っぽさとして見えて、自分の抑圧しているものに気づかされる。「晩春」を思い出す。先日撮影を手伝った作品のことも。
死者をどう弔うか。遺言をめぐる解釈と葛藤。死者の言葉をどのように受け取るか。南田洋子演じる妻は、死者の言葉を文字通りではなく、何を望んでいたのかという次元で解釈し直そうとするが、高橋英樹は文字通りに受け取り、言葉を守ろうとする。長門裕之は、遺言とは別の次元で死者への敬意を示し、死ぬ。長門裕之の狂った演技がすごかった。
マキノ雅弘の他の映画も、見られる限り見たい。
しかしビデオで、シネスコが両端切られて、ワンカットのフィックスの画面が無理なパンや複数のカットに割られているのは悲しい。

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