2006-03-14

女番長ブルース 牝蜂の逆襲/鈴木則文
古本屋で岡本綺堂久生十蘭中井英夫赤江瀑の文庫を買って、夜の午睡で時間つぶしてからラピュタ阿佐ヶ谷。すばらしかった。
アテネ団の団員がみんなかわいい。ほっぺたと唇がかわいい。化粧がやけに今っぽい。逆か。他の役者もみなぎらぎらしているのがいい。次郎長三国志ではかわいらしかった山城新伍が10年足らずでたいへん汚くなくなっているのに驚く。
オートバイファ×ク、ちゃんと走っている引きもアップも、しっかり撮影されているのがすごい。ことが一度終わった後で恋が始まるのもかわいい。

映画は、番長池玲子の倫理がまず示される。貸し借りをすぐ帳消しにするためにセックスで借りを返す。
次いで池玲子に憧れる女子高校生の、アテネ団に入るためのイニシエーションが示され、女性の、男からみた価値基準を捨てさせる。その後、共同体のルール(アテネ憲法)が示される。後の喧嘩でも出てくるが、やくざと同じで、血液が、女同士の絆を高める。
いくつもの共同体間で、また共同体内の成員の間で、対立と融和が起こり続け、また共同体のルールを前にした個人の葛藤が、起こり続ける。
池玲子のセックスに対する美意識と倫理観が好ましい。セックスの、プライベート性(恋愛)と公共性(〈男性〉社会における商品価値としてのセックス)の差を意識し、価値付けていく、個人の美意識と倫理観。

池玲子の作った憲法に対して、そういう縛りが嫌だからはみ出したんじゃないか、と少年院あがりの元番長が言うのがすばらしい。共同体の倫理についての対立。
その元番長が池玲子に敗れ、アテネ団をやめる。仲間が、やめるな、一人は寂しいよ、と言うと、集団といるほうが寂しいこともある、と応える。仲間が「波止場」を歌って見送る。そこで、女の出身地である沖縄返還の新聞記事が、唐突に挿入される。登場場面から示されていた彼女の、集団に対する態度が、その出自とともに孤独となって、挽歌でもって、その集団から送り出されるのに、泣きそうになる。
やくざからめしをもらってないと宣言する池玲子に、めしは食わしてなくても、誰でも首輪はついている、それが当世だとやくざが応えるのに、ぐっとくる。自由などどこにもないという苦い認識。
やくざ社会で認知される夢を捨てられない男に池玲子が、飼い犬ではなく野良犬になろう、と言う。
美意識を失った男たちと、それを失った共同体になお拘泥してしまう男たちは全滅し、女だけが生き残る。
社会、共同体、政治への苦い認識がこの映画の背景にあって、そこにぐっとくる。

金銭のために人生を切り売りしていることにうんざりするというのは陳腐だと思うが、仕事について、ひたすらそういう感覚しかもてない虚無感にうんざりしつつ、金銭に首まで浸かって身動きが取れない。息抜きや喜びもまた金銭なしには成り立たないではないか、と言ってみても、金に支配されているという、奴隷感にうんざりする。
テレビで、ジャマイカのタクシー運転手が休みの日は司祭をしていると言う。二つの仕事の折り合いをどうつけているか聞かれ、人生の物質面はタクシーの運転で満たし、精神面は司祭で満たし、どちらが欠けても生きていくことはできない、と答えていて、その様子が、彼自身に言い聞かせているように見えた。
吉岡実は、仕事中に詩作のことは考えない、それが仕事への仁義だ、ルールだ、生活の基盤である仕事自体をおろそかにはしない、みたいなことを言っていて立派だと思う。
仕事にうんざりすると、カフカのことを考えて、精神まで侵されてはいけない、と自分に言い聞かせてみる。