2006-03-17

「妖刀物語 花の吉原百人斬り」(内田吐夢
赤坂国際交流基金フォーラム。吉原という異世界の仕組みやしきたりやルールが事細かに見せられ、主人公は、それを知らないために堕ちていく。宿命を背負った人物しか出て来ない。同じ依田義賢脚本の西鶴一代女すら救いがあると思えるような、陰惨な、大変な傑作と思う。
贅沢な豪華な映像で、因縁話と世間、人のえげつなさが結びつき、陰惨な話が仮借なく描かれるが、では誰が悪いのかと言えば、誰も悪いとはいえない。人は皆、人生において与えられた役割を果たしているだけで、裏で糸を引いているのは人ではなく、制度や運命ということになる。最後に次郎左衛門が、吉原の悪い奴出てこい、斬ってやる、と叫ぶが、それは刀で斬れるものではない。
どう見ても次郎左衛門のあざと妖刀は、前世か先祖の因縁を背負っているに違いないのだが、それが説明されないことが不気味で、素晴らしい。前世の因縁が隠されていることで、捨て子−あざ−親の遺した呪いの刀、のトラウマが結びつき、事件を引き起こさせているようにも見えるが、それこそが因縁だという、オイディプスのような話になっている。
妖刀が冒頭に出て以降、山場になってようやく、さりげなく出てくる、その刀を持って次郎左衛門が奥の部屋に入る。その刀が捨て子の自分を映し出す。自分が裏切られた女郎の玉鶴ではなく、過去を、トラウマの源を映す。そのとき、次郎左衛門は自分の運命を理解する。刀は生計を助けるためではなく、罰せられるべき人間を罰するために与えられたのだと。または、それを売ろうとした償いの必要を感じる。それを、本来の役目=人を斬るために使うことで償わねばならないと。しかし、その狂気あるいは諦念に捉えられる瞬間は映されない。朝になり、それを受け入れた後の穏やかな姿が現れるだけ。

タイトルバックのくるくる回る糸巻きが、冒頭から、運命の糸が回り始めていることを告げる。
次郎左衛門が結婚できない悩みと言っても、紡績工場には女が山のようにいるし、彼女らはあざのことなど気にしていないようだ。しかし旦那である次郎左衛門が彼女らからひとり選んで妻にすることはなく、同じランクの女しか妻にはなれない、またはしたくない。彼は、素朴な田舎ではない、大商人としての華やかさを持ちたいと心の底では思っている。それは虚飾の世界であり、あざが問題になってしまう世界である。自分を虐げる世界で認められたいという欲望がある。
次郎左衛門の番頭が彼の良心の面、因縁がなければ、なれたかもしれない理想を体現する人物で、全てを失った次郎左衛門と番頭が屋敷に帰ると、番頭の恋人である紡績の職人女が一人で機織りしている姿は、可能性としての次郎左衛門の妻のように見える。
番頭をその女と果たせなかった結婚をさせ、後を継がせることで、次郎左衛門と番頭は分離し、次郎左衛門はその業の部分のみを背負った鬼になる。

船遊びのお見合いで往復し、帰りで次郎左衛門のあざの面が見えて女が嫌な顔をする場面の残酷さと、背景の盆踊りの女達の美しさ。
商売相手の、お膳だてした見合いを失敗させた負い目が次郎左衛門を転落へと導く。
玉鶴のひもが屋根を伝い歩く場面、それから水たまりで斬り殺され、倒れた背後の吉原の光。
吉原の茶屋の主人の人当たりの良さと、残酷さへの転換のそっけなさ。
太夫の美しさと権威。最初の遊びで、太夫が突然立ち上がり、それでお開きになる。
いつも付き従っているかむろの二人の少女が夢のよう。
最後の殺陣はリアリズムではなく、歌舞伎のような形式美になっていて、それもまた素晴らしい。最後に玉鶴がたどり着く吉原の門は、決して開くことがないように閉ざされている。

吉岡実の「うまやはし日記」のことを「うまはやし日記」だとずっと思っていて、馬とお囃子というのがお祭りみたいで、鞍やら手綱やらを飾った馬と、お囃子の笛の音や人々のざわめく声が聞こえてきそうなきれいな造語だと思っていた。
うまやはし=厩橋は勤め先から意外に近かったことを今日知った。

昨日のチェルフィッチュの続き
役者の身体が、中身の入れ替え可能な器のように見えてくる。チックのように、せりふとは無関係に体を動かし続けたり、長いセリフが、万国旗が身体を通して出てくるような感じがしたり、1人の人物が2人の役者によって芝居の途中で自然に交代したり、舞台の出番が終わった役者が素のように壁にもたれかかったり、抜け殻のようにぼんやり立っていたりするのを見ていると、演じられている役/それを演じる人間という境目が曖昧になっていくような感覚を覚え、亡霊を見ているような、心象としての人間を見ているような感じがしてくる。
しかし、ラブホテルの二人の絶望の中心、非現実から現実に帰っていくきっかけになる部分をもっと見たかった。
複数の人間がいて、語り手がするっとが入れ替わっていく時が一番楽しかった。