2006-03-18

青山真治監督の講義。省略について。
ハメットの冒頭。一見つながっているのにつながっていないシーンが、酩酊時の時間が飛んでいる感覚を示しているよう。自分は労働の充実感とその後に訪れる虚しさ、アル中の倦怠感、厭世感をに感じた。
ラルジャンで省略されている多くの(存在しているはずの)場面。逆になぜか丁寧に描写されている、若者が上着を着る場面。物語上、通常見せられる場面が容赦なく飛ばされ、不必要にすら見える場面が描かれること。
現金に手を出すな!の冒頭40分の、全てがアクションでつながり、滑らかに何も省略されず進んでいくようかのように見える編集。しかし、画面に映っていない同時進行の部分の時間はかなり伸び縮みしている。画面外の人物は結構ワープしているが、それはちっとも気にならない。観客に気づかれないように時間を飛ばしていく技術。
めまいと近松物語の、男女の運命の歯車が回り出す瞬間に流れる音楽の共通性。めまいが時間を引き延ばし、その運命の出会いを、内容というよりカット割り自体によってドラマが起こっていることを強調していくのにたいして、近松物語はワンカットで、一見あっさりと見せている。音楽だけがその出会いが運命的であることを告げている。そのさりげなさ、繊細さが美しいと思う。
エデンより彼方にでぞんざいに扱われている、女がコートを羽織る場面。省略はしていないのに、中途半端にジャンプして見せるそのがさつさ。なぜなのか意図がわからない。

映画制作において必要なのは何を見せ何を見せないか、何を省略するか。どういう省略法を選択するか、選択は必要だが、そこに正解はない。
画面に、人が存在しているその存在自体への慈しみを示すことが決定的に必要なのではないか。という話だった。