国際交流基金フォーラムとオリベホールを行ったり来たり。やはり自分には1日4本は厳しい。お昼にFISHでカレー食べようと行ったら、アーク森ビル全館殺虫中で閉まっていて不気味だった。

未来への迷宮(アブラムローム
先生の居候と主人公の筋肉馬鹿の友人が代理戦争。分身と分身の対決。居候はゴーゴリドストエフスキーの描く分身のようで、主人公の家にやってきて先生の言葉を代理する場面は、滑稽な悪夢だった。ふとまぎれこんだ劇場で遭遇するダンスする少女たち、衣装を管理する叔父。カフカのような心象の、無意識の夢幻の世界に迷い込んでいく。途中から現実と夢が侵犯し合い、あいまいな世界になっていく。全キャラクターが立ちまくり。筋肉馬鹿がいつも裸で、円盤投げのパイ投げシーンは大笑い。裸の彼が、主人公があなたの奥さんに恋をしていますと宣言し、夫が、裸の人からそんなことを言われるとは驚きました、と応えるあたりはドストエフスキーと同じ類の面白さ。友人の女の子が階段を歩きながら、立ちたいときにしゃがみ、しゃがみたいときに立つのが人間よ、と言いながら実践してみせる所なども面白かった。衣装ダンスに隠れる主人公、唐突に存在を現すベッドの中の母親。突然、登場したことのない女友達が手術することになって話がまとまっていく滅茶苦茶差など、すごく面白い。いつも誰かが隠れていて、ふいに存在を現す。ロシア的面白さ満載。

噂の女(溝口健二
自分が観た中で、田中絹代が一番魅力的だった映画。恋に浮かれた田中絹代が、生き生きと舞うように動く。と言っても、田中絹代がこんなに軽やかなのが恋のせいだとわかるのは終盤になってから。男の周りをくるくる回る。男たちの肩をとんと叩いたり、娘の肩を抱いたり、煙草に火をつけたりという仕草の一つ一つから眼が離せない。ああ映画はアクションなのだなあと改めて思う。
和洋折衷の無国籍な音楽もよかった。
カットを割らないことで、複数の人物のエモーションが画面に立ちこめてくるように見える。田中絹代が愛人の開業のための家を見に行き、自分の店を売ってもいいと言うのに相手の男ともども驚かされ、その後、その家が見えるベンチに座る。田中絹代が、あんな家のおかみさんになりたいと、男に探りを入れるわけでもなく素直に言って、男が黙っているだけだが、困ったことになったぞという感情を、見ている私が読み取り、触れ合わない二人の感情が画面に漂っているように見える。カットを割ってアップなど入れず、大げさな表情の変化や動きもないことによって、感情が画面に漂っていく。感情に色があるならば、二人の肩辺りから煙のように色が上がり、頭上で混じりあうのが、見えるような気がする。久我美子が男をハサミで刺そうと迫り、田中絹代が割って入りハサミを奪う。しかし、ハサミを手にした途端、田中絹代のほうにふと殺意のような感情が出てしまっているのかどうかわからないが、ここではカットが割られてサスペンスがふいに生まれ、男は殺意を感じ、逃げる。それをまた追いかける田中絹代の未練。
いつもぎすぎすした印象の久我美子にも初めて色気を感じた。彼女もまた、男の周りをぐるぐる回る。
毎度のことながら、どこまでもえげつなく同時に情けない男たち。愛人の男のあまりのえげつなさに劇場がどよめいた。
人が去った後の空舞台/画面に残されるほうの人の姿。遠景が哀しい情感を引き出す。

不安(マノエルデオリヴェイラ
三話連作。緩やかなつながり。人生の幻影。現世の虚栄への不安。一話目の、名声を持った人間の死=忘却されることへの不安は贅沢な悩みで正直どうでもいいという感じだが、老人の異様さがおかしく、最後は大笑い。二話目以降が素晴らしく、映画のゆったりしたリズムが、映画を見る快楽そのものになる。娼婦=女への愛と近づけなさ、たどり着けない距離。主人公が女を船に乗せて漕ぐ美しいシーンが、彼女を死へと送り出すことだったことが後からわかり、悦びと苦しみの裏表が同時に存在せざるを得ない現世への悲しみがこみ上げてくる。ルーレットの美しい場面。長いパイプに火をつける女。三話目の洞窟。洞窟を抜けたとき、女はそうと知らず、それまでとは別の世界に抜け出してしまっている。オフのセリフが不思議な感覚を呼び、とてもよかった。誰がどこから語っているのか一瞬わからない感覚がよかった。

言葉とユートピア(マノエルデオリヴェイラ
集中力を失い、ちょっとつらかった。映像は圧倒的に美しいのだが。人と人が接する時が一番面白い。スウェーデン女王の出てくるくだりとか。手紙が行ったり来たり。言葉を語る人と、それを書く人と、聞く人がいる状況が面白い。どこまでも言葉に拘泥すること。権力者たちの矮小な姿。玉座に座った王子?の股を開いた姿勢の醜さ。見終わった後しばらく、主人公の膨大な量の言葉の響きが頭に残響として残り続ける。