2006-03-16
森美術館でベルリンー東京展。あまりいいのはなかった。特に現代美術はだめだった。ダヴィト・ブルリューク「家族の肖像」の家族の立ち位置と視線、小石清の、夜の町に時計が浮いているモンタージュ、滝沢真弓の「山の家」のファンタジー、ボリスミハイロフは大きな写真でなくて良いので枚数がもっと見たかった。
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チェルフィッチュの舞台初めて見る。「三月の5日間」。松村翔子さんという役者さんが見てるだけでおかしくて、彼女が舞台にいる間じゅうずっと笑ってしまう。
無意識のとき人がしてしまう仕草が誇張され、みな、不審人物になっている。下手な舞踏のような、くねくねした身体の動きが面白い。人物が複数になると面白さが数倍になる。
長いセリフが、繰り返しや言い淀みなどで、素であるかのように見えるよう練られていると同時に、その長いセリフの中に起伏、ドライブ感があって、そのテンポでこちらの感情も乗ったり冷静になったりするのが楽しい。
観客に向かってこれから見せる内容を紹介するとか、ある役の人がしゃべっている途中で「〜って彼は言って」と別の人がセリフを引き取って、一人称が二人称、三人称になるとか、一つの役が、演じられている途中で別の人に入れ変わるなど、語り、人称についてかなり凝ったことをしている。「これから〜の場面をやります」と宣言されることで、冷静に芝居を見ると同時に、コント、見せ物を見ているような感覚にもなる。
時間的に現在の一連のできごとではなく、過去のできごとを、複数の人が観客に語る、再構成という形になっていて、それが、語りの複雑さの面白さを作っている。途中で休憩が入るのもその感覚を強める。
あまり演劇に行かない自分が、たまに演劇を見るときに、入り込むまでに感じる(入り込めないままのことも多い)居心地の悪さがない。
非常に面白く、また見たいし、これまで見ずに惜しいことをしたと思う。

と、同時に、若干の物足りなさも感じる。
今の私(たち)の感覚、リアリティは本当に魅力的で、その点では現在の映画でも本でも漫画でも、これだけのものを岡崎京子さん以来知らないのだけど、その後ろにあるものが見えてこないことに物足りなさを感じてしまう。それはやりたいことではないのだろうと勝手に想像するが、ニヒリズムや虚無感の背景、共同体や制度、時間、死、他者とはなにか、という問題への眼差しが透けてこない。世界から阻害され、自己を疎外することに潜んでいるものへの眼差しがみえない。構成は凝っていてもスケッチ的であり、クールであるけれど、エモーションや、突き抜けた所まで達する皮肉はない。あるのは、照れながらの、または苦い笑いを伴う感傷であるが、そこにとどまるのは、現在のさまざまな表現のアキレス腱なのではないか。結局、どれだけ知的に練っていても、ひねくれ度が増しているだけで、つまるところ、絶対的なものはなく、現在は全て過去であり、人と何かを共有できるのはうれしいけど、限定つきでしかありえないという、感傷にしか行き着けないことへの物足りなさを感じる。ナイーブさにとどまってしまうこと。その感覚は自分も共有するけど、その背景やそれを含む世界に向かいたい、と思う。それは構造や制度、時間や他者や死、死者、抑圧されている何か、だろう。
最後のあっけないシーンや、金銭がきっかけになるところはいいのだが、そこでやるせない気持ちにはなれなかった。やるせ、くらいまでは行って、それでチェルフィッチュとしてはいいと恐らく考えているのではないかと想像するが、自分はやるせない所まで行きたいし、行かせて頂きたい。
しかし、面白いのでこれからも見たい。シナリオ本を買って帰る。