冷飯とおさんとちゃん(田坂具隆)の最初の2話を見直す。
おさんを見ていると息苦しく、めまいがしてくる。当初、中村錦之助新珠三千代と一緒に画面に映っている時は普通に映画の時間が流れているようなのだが、新珠三千代がいなくなると、映画の時空がわからなくなってくる。最初は過去と現在の混在の区別がついているのだが、だんだん現在が過去に侵されてくる感覚になる。
おさんや作次が中村錦之助に話かけるのが、中村錦之助の主観で映され、中村錦之助は画面に映らないのだが、錦之助の目線からではない位置にカメラが変化する。そうなると、主観ショットとして見ていたものがそうではないということで、混乱してくる。錦之助の頭の中の映像を見ている感覚になってきて、騒々しかった居酒屋の音が消えていくなどの演出もあって、徐々にその感覚が、錦之助が画面に映っている場面にも伝染し、最後には中村金之助の心象風景に中村錦之助自身が出てくるという感じがしてきて、ラストの幻想にいたる。
たびたび出てくる少年は、少年時代の錦之助自身、女や性を知らずにすんでいた過去の自分のイメージ、自分がなり損ねた自分のイメージのように見える。
作次も明らかに、自分がなり損ねた自分だろう。自分自身でもそう言う。
自己の確かさ、世界や記憶や時間の確かさが歪んで、足元が崩壊するような感覚に陥り、めまいがしてくる。