シナのルーレットファスビンダー)、アテネフランセ
すっかり老け込んだアンナカリーナが、スカートをなびかせてくるくる回り、けんけんぱをする軽やかさは変わっていなくて、そこで初めてアンナカリーナだと気づいた。アップのときの手を噛んだり目元に手をやる仕草も同じで、ふわふわした軽さと不安定さが変わっていない。空港で愛人と出会うときの、喜びがあふれている感じも素晴らしい。後半は出番が減って、どういう意味合いの存在なのかわからなくなって残念。
人物たちはひとまずリアルで戯画化され過ぎていなくて、俗物ぶりに対する距離が出ているためにユーモアが生まれて、薄暗い気持ちにはならない。
同じ室内にいる人物たち自身にもどこに向かっているのかわからない、不穏な状態が維持され続けるのが面白く、勉強になる。一度では見尽くせない曖昧さ、目的のないままの不穏さの生み出し方、維持の仕方を、再度見直したい。体裁やつくろいによって醜悪な場面を回避していこうとするブルジョア心理が、予想外のリアクションにつながっていく感じ。例えば、最初に別荘で二組のカップルが出くわし、一触即発状態からふいにみんなが笑い出す、それを衛星のようにカメラが回って映していくカット。
男女の一夫一婦制という常識的な関係が壊れていきそうなアナーキーな、無秩序状態に近づく危うい瞬間がふっと出てくる。別荘の女管理人とその息子や、娘と唖の家庭教師、夫の愛人と妻が、思いがけぬ性的なニュアンスをもって画面に出てくる時に、現在の我々の支配的な制度が揺らぐ、崩壊の予感の感覚が生まれる。
森を横移動で映すカットはゴダールに似て美しかった。
電話している娘の横で家庭教師が縦笛を吹いているシーン、面白かった。人形たちもよかった。ルーレットの場面で家庭教師が手話で、誰よりもえげつないことを語るのも面白かった。
管理人の息子で、主人を利用して詩集を出したいと画策しているガブリエルの中途半端な立場がよくて、彼が主人にアピールするために(後で盗作とわかる)詩を読む声が流れつつ、画面では人々の思惑が錯綜しているのが映される場面、素晴らしかった。

ブロークバック・マウンテンアン・リー)、新宿武蔵野館
レイトショーで、一見してそれとわかる観客が多いなか、一見そうとはわからない中年の男性カップルなども来ていて、ちらちら見てしまう。
スト20分くらいがよかったけど、そこに至るまでに不満が多い。
長い時間が経過していく感覚、人生がままならず進んでいく感じ、現実とつかの間の幸福である逢瀬の対比がうまく出ていない中盤がだらだらしていて、終盤にうまくつながってこない。長い時間を見せることは難しいものだと思う。どこにポイントをもって見せていくか。世界に抑圧される彼らの人生=楝獄の感覚が映画を覆わず、滅多に会えないと言葉では言うが、映画の中では結構会っているように見えてしまう。
ジャックが、ロデオの失敗を救ってくれた男に酒をおごろうとして断られ、ビリヤード台の前でゲイであることを噂されるらしい、あのような感覚が映画全体を覆っていないために、普遍的な悲しみへ向かっていかない。
ブロークバック・マウンテンという楽園の特別性が、諸盤はともかく、その後よくわからなくなってくる。二度目以降、二人が逢瀬を重ねる場所がどこなのかよくわからない。初めて会ったあの場所とその後会う場所の差が見えて来ない。そのために、山場でジャックの父親が、「ブロークバックマウンテンなら知っている」と言う、重要な言葉の意図がわからなくなっている気がする。象徴的な意味で言っているのか、地理的な意味で言っているのか、その両方なのか、父親自身の過去と関係しているのか。
ジャックの父親が、二人の関係がうまくいかないことの象徴的な、根源的な、亡霊的な存在として現れるはずで、画面自体はそうなっていて、ピントが浅く、父親の眼にだけ焦点が合っているアップはいいのだけど、映画の流れのなかで、いまひとつそうなっていない感じがする。ジャックの父親の、同性愛に対する抑圧と理解がうまく出ていないように感じる。
イニスがジャックの子供時代の部屋に入り、窓を開けておく木の棒を、かつてジャックが使っていたように使う、素晴らしいシーンだけど、そこで、一階の両親は映されない、そのためか、父親の心変わりが唐突に見えてしまう。家を出たイニスの会釈がいいのだけど、母親の扉の閉め方が雑に感じる。
イニスの娘が、父親の秘密に昔から感づいていて、その孤独を理解する存在かと思ったら、どうもそうではないらしい。
ジャックが行くフアナの男娼街が恐らくセットで人工的で、それはいいのだけど、せっかく非現実的であざといのに、ジャックが彷徨う感じ、性欲のもの悲しさと煉獄の感覚が出ていない。もっとうろつき、躊躇なり、ふっと入り込んでしまったりするような迷宮の感覚が見たかった。
娘の忘れた上着をたたむイニスの仕草が素晴らしくて、涙なくして見られないが、その仕草につながる場面、演出はそれ以前には出て来ない。
ロデオという職業がこれほど蔑まれていることを初めて知った。
冒頭のイニスの、孤独な感じは強烈だが、その後、その孤児のような強烈な印象は、弱まっている。
イニスの妻が夫らの現場を見てしまう場面で劇場全体が笑っていたけど、それは失敗なのではないかと思う。妻主観の、何も遮るもののない現場そのものと、妻のアップの切り返しで、全部見せてしまっているためではないか。「噂の女」で母が、娘と愛人の現場を見てしまうとき、行為そのものはシルエットで手前にあってはっきりとは映されず、その向こうに母の全身が映っていて、はっとさせられた。