ヒストリーオブバイオレンス(クローネンバーグ)、東劇
後半までの流れは眼が離せなくて、カットが多すぎるのは好みではないが、即物的で悪趣味なカットが頻出する。かつての西部劇と変わりなく、ならず者から身を守るために暴力があり、不穏さと暴力が日常のなかに存在している。ショットガンを構える母と、息子が食べるコーンフレーク。
階段での非日常と暴力とセックスの結びつきが、冒頭のとほほなコスプレセックスと対応する意地の悪さ。
人質交換の場面で、近づくヴィゴモーテンセンのアップの腕の位置が変で印象に残る。
車道にフィラデルフィアの標識が出た後、ヴィゴモーテンセンのミラーに映る顔は別人になっていて、どのような技術が施されたのかわからないが、はっとさせられる。切り返しで映る運転している本人自身の顔は変わっていない。
待ち合わせしたバーの後方に、ものすごい悪人面の男がいて絶対こいつだと思ったら、全く違う馬鹿面の男が待ち合わせの相手だったりするのも楽しい。ファッションモールでのエドハリスの、傷ついた片目についてのセリフもよかった。
しかし後半の展開には、笑いつつ、楽しめない。
兄が長いセリフを語るアップのカットが、不気味さとともに、王位を継承した人間の猜疑心と疲れと傲慢さ、弟への怖れを物語り、王位継承を巡る兄弟の愛憎劇の様相を呈するのだが、その後のへなへなの展開がそれをあっさり裏切っていく。
あのように物語を裏切って脱力していく展開は笑えるが、それでいいのだろうかと考えてしまう。弟にとって、追いかけてくる過去というのはあんなにあっさり葬りされるものなのか、弟を畏怖し探し続けた兄はあんなにも間が抜けていていいものなのか。お互いが縛られている亡霊が弱すぎて、兄のへぼさは、合う鍵を探す所など面白いは面白いが、わだかまる。
過去が追ってくるという昔からのテーマを、かつてのギャング映画や西部劇が苦々しく描いたようには、その矛盾や根本的な敗北感、恐怖を維持しえず、シニカルなパロディにもって行くのはどうなのだろう。
ダーティハリーの名が出てくるけど、クリントイーストウッドのように、トラウマや倫理の矛盾や怒りを背負いつつ人ではないものになっていく感じではなく、フランケンシュタインレプリカントのような怪物の哀しみもなく、ただ単に主人公が、自分と家族を守るために暴力があり、その背後にはなにもない。

友人が、大きな物語がない現在に生きている私たち、というようなことを言っていて、それが自分にはぴんと来なかった。自分が生きている限り、両親と祖先がいて、記憶があり、共同体があり、死があり、他者がいて、それから逃れることはできない。どんな小さな物語にも、それらが影を落としているはずで、大きな物語がないというのは感傷と感じてしまう。

近松物語で、茂兵衛が瞬間移動する夢の感覚。つじつまは合っているのだが、茂兵衛は蔵の上部から女中の部屋へ、田舎の路上から父の家へ、父の家からおさんの実家の裏庭へと瞬間移動する、夢のような感覚を引き起こす。もへい、もへいと呼びかけられた時から茂兵衛の夢が始まっている。
近松物語の、身分と金銭による権力関係と封建制度を快楽装置に変換していこうとするマゾヒズムは、マゾッホが「魂を漁る女」で描いたように、アナーキズムにつながっていくものを内在している。市中引き回しされることが幸福の証しになっていくように、価値を転倒させていく力がある。