20060401

はすみ先生の映画講義。映画史における帽子について。
都会ー地方を分ける表象としての帽子。人間の肉体の重さや固さという、身体の限界を乗り越えていくイメージを表象するものとしての、頭髪を覆うもの。という主に二つの観点から映画の抜粋を見る。

穴の牙(鈴木清順・脚本大和屋竺
三人の人物に生まれる因縁の作り方。殺すものと殺されるものがおり、死んだ男に直前、情をかけられた女が、その返り血を浴びた時、死者を含む三者が離れられなくなり、運命の歯車が回り始める。死者を含む三角関係、死者を含む、われわれの世界が存在し始める。それが進行する中盤までがすごくよかった。
死者の書」で、死んだ大津皇子が処刑される直前に、処刑を見る美しい女の顔を見た。それを目撃した人が、大津皇子の生前の執着が、最後に一瞥したあの女に残っているに違いないと思う。そこに因縁を見いだし、それが事実であるかどうかとは別に、死者の思いに対して生者が想像し、怖れを抱く。そのとき、死者を含む我々の世界が生まれる。
恐らく同じ一つの部屋を、美術を変えていくつもの舞台として使う、バーになり、警察署になり、割烹になるのが、映画の世界が、主人公にとっての世界であるような感覚をつくって面白く、真似たい。
我々が世界や他者だと思っているものは、我々一人一人の頭の中の認識における世界や他者に過ぎない。意識の牢獄の感覚。我々が話す時、それは我々の中の他者に向けて話しているのだし、風景はそれを見た人の心象風景なのだという、唯我論と言っていいのか、そういう感覚になる。それぞれそういう存在としての、複数の人間がいて、世界がある。
そのとき、人がモノになり、人間の世界が石ころの集まりようになり、普遍的な孤独の感覚が生まれる。しかし、ではお互い全く関係ないのかといえばそうではなく、人の意図を超えた所で人は人に影響を与え、関係が生まれ、世界が変更され、運命が生まれる。そのように世界が存在している。それに惹かれる。