「嗚呼!おんなたち猥歌」を再見。
内田裕也は、この世に生まれて来たことが、すでに挫折であるように見える。生まれてきてしまったのは仕方なく、ユートピアを求めてさまよっている。それは世界が一つの家族のようで、かつお互いの欲望が規制され合わない世界で、性別も超えてセックスの共有が含まれる、現代ではアナーキズムに近い雑婚の世界のように思われる。
しかしまた、妻や愛人や安岡力也に責められても答えをもたない内田裕也には、おそらくそういう意識はない。内田裕也自身何を求めてさまよっているのかもわからないユートピアはこの世界には存在しないし、周囲に理解されることも、説明されることもない。
しかし、内田裕也は疲れ切った父親のようにも見える。誰かれとなく行うセックスが、ちっとも気持ち良さそうではない。首を絞められる時くらいか。
エロス+虐殺で、大杉栄アナーキズムを理論化し、実践し敗れたが、映画の中でそれは、虚しい痴話喧嘩のように見えてしまう。アナーキズムが、公的なものにはなりえないことの疲労感ばかりを感じる。理屈を超えた所で自分にもわからないまま、内田裕也は私性にとどまってそれを行うように見える。もちろん内田裕也も敗れるのだが、そこにエロス+虐殺にはないカタルシス、哀しみが生まれてくる。

安岡力也が内田裕也を軽々と公衆電話まで運び、煙草の火までつけてやるとき、涙を禁じ得ない。これ以上ない愛の行為が行われるようで。
その後、安岡力也が内田裕也に詰め寄る場面があんなにもの哀しいのは、内田裕也のことを深く愛しているのにもかかわらず、理解できないことが露呈されるからだろう。現実世界のルールでは、理解できない。大体内田裕也自身にすら理解できていないから、説明することもできない。
他方に、中村れい子という、内田と同じようにわけのわからない人間がいる。彼女についてわかるのは血の味が好きな吸血鬼の類のものであり、それで看護婦になったらしい、ということくらいで、内田裕也との関係の中で、同じように、制度や常識でははかれない愛と絶望を抱えていたらしいことが明らかになってきて、ひとまず敵である内田の愛人へ深い愛情を示すに至る。

その、わけのわからない両者に、通常の理解を超えたコミニュケーションが成立する。愛人とセックスしている内田の足に中村が包丁を刺し、すかさずその血をなめ、包帯を巻き、首を絞め合うセックスをするという、通常の理解を超えたコミュニケーション。肉体を持って生き、死ぬ我々の、重力から逃れられず肉体に縛り付けられている絶望を含めた、子孫を作るという目的などまるでない、ぎりぎりのコミュニケーション、死に近づくエロティシズムの儀式としてのセックス。
内田裕也の愛人のほうが子供を作ることや結婚という制度的なもの、延命的なものに執着し、死に至るのとは対照的。
二人の愛のありようは世間的にはアナーキズムにかたよるもので、それは何度も挿入されるジョンとヨーコの愛のイメージが、所詮現実レベルの、一夫一婦の家族制度を補強するものでしかなく、またその程度のサイズのものが、世間で認知されうる愛のユートピアでしかないことへの諦観として示されているように思える。

スプリングルーヴ。スヌープドッグとエリカバドゥを見に幕張メッセに行く。
上記二人のレベルが段違いで、マイティクラウンの選曲は別として日本人はよくなかった。ダミアンマーリーはバックバンドはまあまあだったけどライブに慣れていないのか自信なげで、ファレルは下手なロックバンドだった。スヌープドッグが想像と違って健康的でサービス精神もあって驚く。エリカバドゥは数年前見たときはアルバムを完全コピーしていたが、今回は全く違うアレンジでバンドのレベルも高くてジャズに近づいていて、ドラムマシンを叩く姿は地母神のような神々しさだったが、観客の元に来て手を挙げるよう求めたのに対して、観客が携帯電話の写メール撮影で応える姿は醜悪だった。