両親が東京に来て、2年くらいぶりに一緒に飯を食う。

カフカの父親は一代で財を成した成金で、その頃、そういう新興中産階級ユダヤ人がプラハに増えていたらしい。その父親はもちろん立身出世主義者で、金儲けに余念がなく、それを幼少から見ていたカフカは物質的価値に疑問を感じつつ、そこで教育その他を受けていた人間でもあり、現世はどこまでも父のような人間による、弱肉強食と金銭が支配する世界で、そこから逃れられないと感じていたということで、現在も同じような状況はあって、現世的価値を受け入れられないのと同時にそこから逃れられない感覚、閉塞感がある。
カフカは矛盾の状況に留まり、その構造を小説の形で取り出すことに費やした。

父を見ていて感じるのは、常に目的が必要なことで、全ては目的のための手段として存在しているらしい。現在は常に未来のために存在しており、それは明確に死が近づきつつある今も、変わりないようにあろうとしているようで、それはそれで痛々しいのだが、そこに欠けているのは今ここにある時間、という感覚のように思う。
吉田健一内田百間田中小実昌という人たちの文章が好きで、それが魅力的に思われるのは、酩酊感にあり、酩酊の中にたゆたう時間の感覚があって、目的と手段が分離されないところに、現在という時間の実質があるように思われる。
オリヴェイラルノワールの映画を見ているとき、そういう感覚に陥るときがある。次に何が起こるのか、ではなく、今、起きていることそのものが映画だという実感をもつ。
自分もつまらない文章を今、たらたら書いているのは、ほとんど酔っぱらっている状態においてで、夜、酔っぱらっていないのは一年で数日しかなくて、言葉が常に自分からにゅるっと逃れていくのを追おうとして、文章はくねくね長くなっていき、結局迂回しかしていない。翌朝自分の文章を見てうんざりして、全て消したくなるが、なぜか消さず、せめてもの体裁を整えることになる。
ただ、吉田健一田中小実昌の酔っぱらい方は違うような気がして、吉田健一のくねくねの中にはきちんと関節や骨があって、近くで見るとごつごつしているが、田中小実昌の場合は近くで見てもやっぱりくねくねして軟体動物のように思われる。

ハスラーでは、行き詰まった状況があらかじめあり、人はみな最初から疲弊している。しかし、お互いが出会ったとき何かの作用が起こって、相手を欲望の対象とみなし、自分の欠損をそこで埋めようとし、崩壊が再現される。過去が示されなくても、相手を変えて同じパターンを反復してるな、ということがわかる。父は跡継ぎを探し、母は息子=恋人との一体的な世界を求め、息子はどちらも選択できず、さまよう。

ハスラーの重苦しさは、サラの死に対して、生者が決して借りを返せないところから来ている。ポールニューマンは決して、浪花悲歌の山田五十鈴のように、前を向くことができない。彼が最後のビリヤード場を出た後で行く場所は少なくともあの時には、どこにもないように見える。映画の中には、その可能性が見当たらない。
小早川家の秋」で、中村鴈治郎が死にかけて甦る、そのとき新珠三千代がほっとする、それは死者への負い目がなくなったことへの安堵感で、中村鴈治郎はそこで生者に功徳を施している。生者が死者をどう位置づけるか、というのは生者の問題であり、死者の問題ではない。当たり前だけど。