食うのが楽しみの両親に二晩付き合って消耗する。うまい豆腐でもあれば十分じゃないかと思うのだが、牛肉の固まりを濃い味付けで、乳脂肪分もどっさり添加して食べないと贅沢した気がしないらしい。酒も飲まないからたちが悪い。盛大な食い物に傾ける情熱に中てられ、居心地の悪さを埋めるのに1人で飲みすぎてぐらぐらになり、帰り路、胃の中のヒレ肉がちっとも消化されないのにもだえる。両親と別れてから道端で吐こうとしたが吐けず、広尾から千駄ヶ谷まで、よろよろと1時間近く歩く。

桜の代紋(三隅研次
父たろうとする男の受難。若山富三郎の感情のみえないしゃべり方と耳触りのいい関西弁が、倫理の怪物性と人間の配慮をあわせもつことを物語っている。それは強い父といってよく、映画は若山富三郎の、冷静さと倫理性、正しさとその達成の難しさを行為で示し続ける。
子供が不在であることが効いていて、途中で映される空のベッドが印象に残る。子供がおらず、おそらく家族が妻しかいない若山は、家族を家庭外に拡大して形成し、父の秩序をもたらさねばならない。
弟と言っていい(実際、兄弟と呼ぶ)大木実を逮捕し、取り調べる時の当然という様子と、娘との対面時間を規定を越えて延ばさせる場面の対比があり、その後あっさりと彼女を養子にする。頼りない息子の役回りである関口宏の死に慟哭するような場面はカットされ、妻の死の後は、無表情に歩くカットがあり、すぐにその後の行為になる。
感情をあからさまに示すような場面はなく、次々とあっけなく人間が死んでいく。若山自身は死なず(死ねず)、彼のまわりに死体の山が築かれていく。
やくざにぼこぼこにされた後の上着や眼鏡を拾わせる落ち着きぶりも父の物言いで、家で妻を待つ身動きしない静かさ、謹慎中の落ち着きぶり、最後の殺しの、冷静さを示す弾をゆっくり詰め直すアップの異様さ。
唯一迷いが見えるのは、不肖の息子と言っていい(柔道で鍛え直す)、石橋蓮司の言葉の真偽をはかる時の顔のアップで、そこは正しさを一瞬見失い、推し量る場面だから、そうなるのだろう。
最後、裁判まで見せるのも、父性、倫理というテーマが貫かれており、判決がどうあれ、若山富三郎の正しさは揺るぎないように見える。
体の丸っこさと動きのしなやかさ、銃の構え方、声、終盤のぼこぼこの顔、頬の傷など、若山富三郎自体が表象のようで、無意識に訴えかけ、夢に出てきそうで、その時自分の役回りはやはり、関口宏なのだろう。映画にもあった、一緒に尾行する夢を見る気がする。昔の映画俳優は夢に出てきそうな人間が多い。
妻を待つ、家の外の景色が変化して時間の経過を示す、日常の風景の連なりがよかった。