「車夫遊侠伝 喧嘩辰」「怪談 お岩の亡霊」(加藤泰)を見る。渋谷シネマヴェーラ
「お岩の亡霊」の伊右衛門の仮借ない悪人ぶりにめまいがする。冒頭ですでに我を失っている伊右衛門のうつろな目。女を愛せない男は、それはもう人ではない、というかのような。伊右衛門は完全に嗜虐好みのサディストになっている。それだけに、雲の上のようなところで舞うイメージの場面が、後悔の言葉や表情もないだけに一層痛々しい。
お岩が醜くなった後で、按摩がむりやり間男させられ、お岩が怒り、按摩が好き好んでやっているわけではない、なぜなら、と言って鏡を見せる場面が、もっとお岩の美しさへの自負心と、醜くなっていることの対比がもっと残酷にできると思うのだが、加藤泰はそこまでお岩に冷酷ではないなと感じた。
「喧嘩辰」すごく面白かった。マルケスのマコンドのことを思った。列車でつながっている他から遊離しているような共同体で、西川の親分が刑務所に入る時の傑作な場面や出所してから家まで歩く場面にそれがよく表れている。駅と駅前の人力車停車場もとても魅力的。
いかにもセットの舞台が、現実から少し離れた感じを出していてとてもいい。
辰が喜美奴を車ごと川に落として、彼女が車から離れた時に惚れるという、辰の前に、アニマとしての、永遠の女性が、川に落ちていくほんの1秒くらいの間に現れるというのが面白く、それを西川の親分に説明する場面の長廻しがすごく良かった。
最後の結婚式が、なんだかわけがわからず、結婚式に拘泥するような女はあまり好きではないのだが、お神酒を川に落とすところで、はからずも感動してしまう。
最後のカットで後光が指してきて菩薩になり、やはり永遠の女性像が追い求めてられていて、加藤泰の現実を超えていく母性へのひたすらな憧れに、すごいなあと素直に感心する。
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会社に蔓延しているホームルーム感、道徳の時間のようなせせこましい性善説にうんざりする。
アイロニーのことを考える。矛盾を生きること。人の数だけ言い分があること。
利害を超えた善が前提として存在しているかのようなナイーブさ、他者が存在しないかのようなふるまいにうんざりする。