京橋の映画美学校の上映会で5本の映画を見て、どれも素晴らしく面白かったが、最後の「西みがき」に深く打たれた。今でも思い出して震えるような気持ちになる。
小津の「晩春」を見るといつも、「その後」のことが気になる。あの原節子の結婚生活はおそらく、うまくいかないだろう。しかし笠智衆は、出戻るのを許さないだろう、許したとしても、かつてのような気持ちでは接することはできないだろう。結局、2人は再び、幸福に暮らせることはないだろう。しかし、なぜなのか。なぜ、2人で幸福に暮らせないのか。笠智衆はそれが世の理だからだ、と応え、原節子は退廃的な生活に陥って、酔っ払って階段から落ちて死ぬのかも知れない。その時初めて、笠智衆は、自分が何かを過っていたかも知れない、と思うだろうか。
「西みがき」の人物達はみな、欠如を抱えている。その欠如は解決不可能な欠如で、例え浩一郎が死んでいなかったとしても、それぞれの欠如が埋まることはない。生まれ落ちた瞬間に与えられた関係から生じた、現世においては決して埋められない欠如であり、解決するには、現実を、世の理を超えるしかない。
奇跡の海」や「トークトゥハー」では、奇跡がふいに訪れる。「西みがき」では、ゆきこが自力で、現実を利用して、奇跡を起こそうとする。浩一郎が残した映画の「三本足のリカちゃん」の言葉が、自家生殖の幻想の引き金になる。かすやさんから教わった「また覗き」の技法と、皮様嚢胞腫という自ら生み出した身体(病気になったのではなく、自分の意志で造ったのではないか)と、浩一郎の玩具と、夢の力を用いて、浩一郎をもう一度殺し、弟としてではなく、自分の一部として、子宮への道であると同時にあの世とこの世の境目であるようなあの地下室で、再生させようと試みる。

たまたま折口信夫の「死者の書」を読んでいた。現世に怨みをもつ死者に呼ばれた(と聞かされる)少女が、怨みをもったまま復活するのは呪文で押し留めつつ、曼荼羅を織るという技法でそれを浄化し、神として再生させる。少女の織った衣に菩薩の絵が浮かび上がる。最後は、「其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐいかも知れぬ。」と結ばれている。
ゆきこの、死者を「本来そうあるべきだった」者として再生させる試みは、それに必要な、その世界を共有する人間(それを証明する人間がいなければ世界が成立しない)の裏切りによって挫折する。奇跡は訪れず、世界に変化はなく、人物達はそれぞれ変わらぬ欠如を抱えたまま、生き続けねばならない。
その点で徹頭徹尾、現実世界における現実についての映画であって、死者に対する想いと哀しみを、現実の規則に踏みとどまりつつこれほど深く描いた映画を他に知らない。4人の人物それぞれの空虚を抱えた表情が素晴らしく、寂しく哀しい。